椿山荘と森家
椿山荘 と書いて「ちんざんそう」と読む。今は都内でも指折りのウェディングロケーションとして知られているこの場所であるが、実は正雅堂家こと、森家にとっても縁の深い場所でもある。
過日、5月18日の記事に「森長武公忌」
を掲載したが、この森長武が最後のときを迎えた、津山藩邸下屋敷があったのもこの椿山荘のある関口台だった。
長武が死去してまもなく、本家の津山藩森家は改易となり、小さな分家だけが存続を許された。そのうちの一家、三日月藩主森長俊の子・光照が仕えたのが黒田直邦という、後の久留里藩主黒田家だ。この黒田家が造園した庭、それが現在の椿山荘なのである。
黒田家が造園したこの庭は、久留里藩江戸下屋敷の一部であった。久留里は千葉県の房総半島のほぼ中心に位置し、3万5千石の城下町。有名なところでは新井白石の生誕地でもある。しかし、黒田家には久留里のほかにも飛び地として小さな領地があった。
その場所は、現在の埼玉県飯能市。飯能には黒田家と、黒田家の前身である中山家の菩提寺があり、将軍の側近だった直邦は、綱吉の許しを得てこの所領を特別に飛び地として拝領した。久留里とから江戸を越えてさらに西にある飯能5千石の飛び地、この所領を管理するに当たって、江戸から西寄に位置したこの下屋敷が重要な役割を果たした。
また、多くの藩主は通常中屋敷か上屋敷に住んでいることから、この下屋敷は家臣が中心の「社宅」でもある。黒田家の歴代家老を勤めた森家の中でも3代光暁・4代光厚は、久留里藩としては家臣筆頭の地位である江戸家老の職を帯びて、たびたびこの下屋敷に逗留し、領地支配の任に当たった。公務の合間に庭園を眺めたり散策したり、そういう意味でこの椿山荘の庭園は森家にも縁が深い。
森家の縁はまだ続く。
明治になり、諸藩が廃藩となると、首都に複数の屋敷を持つ必要が無くなる。
多くの藩が売却をしたように、黒田家でもこの下屋敷を売却に掛けた。
そのとき、この買い手となったのは、第3代内閣総理大臣・山縣有朋公爵である。
有朋公は当時「椿山」(つばきやま)と呼ばれたこの一帯を購入し、藩邸の解体に着手、その後に改めて造園を行って「椿山荘」と命名した。これが現在の「チンザンソウ」である。明治・大正の天皇を初め、当時の政財界の第一人者が日々この場所を訪れ、重要会議を開いていたという。
最後の家老、森光新の子・勝蔵はこのときの縁で、短期間ではあるが、山縣家に仕えることになる。山縣家は当時至る場所に農場を所有しており、そのひとつ、栃木県矢板市にある山縣農場の管理官として半年間赴任した。このときに書き上げた伊佐野農場図稿 は、山縣財団によって近年翻刻化され、書店に並べられて日の目を見るにいたった。
津山藩主森長武の屋敷、森光暁や光厚が過ごしたであろう椿山荘、そして山縣有朋公と森勝蔵の出会い、これら一つ一つが、この椿山荘の長い歴史の歯車として刻まれているのだ。
ちなみにこの庭園には室町時代に建てられたとされる三重塔がある。
一見、落成当時からここに建っていたように見えるが、大名屋敷の庭にこのような塔があるはずも無い。
これは、山縣家からこの庭園を引き継いだ藤田平太郎男爵によって、広島県の竹林寺から大正14年に移築したものである。藤田平太郎は現在の藤田観光グループの創業者となる実業家・藤田傳三郎の嫡子だ。
戦前、東京には多くの古塔があったが、その多くは戦災によって灰燼に帰してしまった。上野の寛永寺五重塔と池上本門寺の五重塔と並んで、現存する3つの古塔とされている。
従って三重塔という意味では、都内唯一の古塔となる。