森長武公忌
5月18日は津山藩3代藩主・森長武公の命日である。
今から310年前の今日、元禄9年(1696)5月18日、江戸の関口台にあった津山藩邸の下屋敷の病床で静かに眠りに就いた。享年52歳。法名は圓明院殿。
関口台の屋敷は現在で言うところの東京カテドラルの付近。余談ながら近くには、正雅堂の先祖が幕末を迎えた久留里藩邸下屋敷があり、その庭園は維新後に山縣有朋公が購入し、椿山荘となって今に残る。
森蘭丸の弟、森忠政公によって開闢(かいびゃく)された津山藩は美作一国を統治する国主大名として確立し、2代長継公のときに全盛期を迎えた。長武公はその次男に生まれた。次男というからには長男がいた。本来ならこの長継の長男・森忠継が森家を継ぐものと誰もが考えていた。事実、忠継は江戸の上屋敷に定住し、老いたる父長継の補佐として藩政にも参与していた。武家社会ではじめての「組合」である諸般の家老同士の連絡会なるものを考案したのもこの忠継だった。その話は別に譲るとして、この忠継が、津山に帰国中の延宝2年(1674)に流行の病であっけなく病死してしまう。
この忠継の急死に驚き、そして嘆いた父長継は、病床の忠継に自分の後継を忠継の子・万右衛門に譲ると誓っていた。とはいえ、当時万右衛門は3歳。医療が現在ほど発達していない江戸時代において、早世しないとも限らない3歳の幼児に藩政を託すことは無理だった。近臣が補佐するにしても、幕府の決まり事によって、17歳以下で早世した藩主の家は取り潰しと決まっていたからである。しかし、当時では高齢の域である64歳の長継。万右衛門が17歳になるまで自分が頑張れるかは不安である。
そこで、白羽の矢が立ったのが亡き忠継の弟、長武であった。
自らの隠居と同時に長武を幼い万右衛門の後見人とさせ、万右衛門が16歳を越えるまで家督を預かるという、「期限限定藩主」として幕府に届け出て、これを認められた。
こうして津山藩3代藩主となった長武であるが、この「期間限定」が彼を焦らせ、そして底尽きぬ欲を持たせる事につながった。
父長継の時代は、藩政も安定し、藩の財政収入も良いとは言わないまでも、決して悪いものではなかった。ゆえに長継は領内にいくつもの寺社を建立し、江戸においても多くの寺社に寄進物をしている。思えばこの時代は260年間に及ぶ江戸時代でも、最も豪華絢爛とされた元禄の時代。戦国時代の荒々しさが取り外れ、多くの武将を輩出した家も、一介の大名家となって貴族的生活に落ち着き、何もかもが華々しい時代だった。そんな時代の贅沢を見知っていた長武がそれと同じ事をしようと考えるのは当然であり、しかも自分が「強制隠居」させられた後の生活を考えれば、そのための布石を打とうというのも理解できないものではなかった。
「強制隠居」という言葉を使ってみたが、これは別に悪事を働いて隠居になるのではなく、3歳の万右衛門が16歳を越えた13年後に自動的になるという意味で、30歳で襲位した長武は、隠居しても43歳ということになる。平均寿命の短い江戸時代にしても、これは長い老後である。そのため、幕閣に働きかけて役職につけてもらったり、高い官位をもらおうと必死になった。そうすることで、隠居後も何らかの形で幕府にパイプを持ち続けることができ、上手く行けば、新たに所領をもらって、どこかの藩主にしてもらうことも夢ではないからだ。 だが、所詮は外様大名である。幕府の掟によって外様大名が幕府の要職に就くことはなく、せいぜい彼らに与えられる仕事といえば、将軍家の菩提寺・増上寺の火の番や、江戸城の外堀を囲む御門の警備くらいである。(忠臣蔵で登場する勅使饗応役もその一例)
こうした役目には莫大な金銭がかかり、長継ほどの寺社崇拝はなかった長武も、この方面への出費は惜しむことを知らなかった。津山の郷土資料にある藩主の逸話などからしても、長継よりも長武の悪評の数が多い。その背景には長継の寺社崇拝よりも高額な出費であったことと、その負担を課せられた領民の怨差が伺われる。また、寺社に対しては、長継が毎年寄進していた藩主家からの扶持を大幅に減らせてみたりと、僧職からの非難も想像できる。
簡単に書けば、外には見栄を張り、領民や寺社に対しては「ケチ」を励行させたのだ。
そして、「ケチ」は家内にも及ぶ。たとえば長武の弟、長俊と長治に対する分家独立にも消極的で、隠居した父長継の強い後押しによって、嫌々ながら領地を分地させて支藩化(長俊1万5千石、長治1万8千石)させたりしている。これは想像の域を脱しないが、弟たちに領地を分与してしまうことで、自分が隠居した後に分与してもらう領地が半減してしまうという恐れもあったのではないだろうか。
いったい長武がどれくらいの隠居所領を望んでいたのかは分からないが、晴れて万右衛門が16歳を越えて、名前を長成と改めて4代藩主となり、隠居する長武に対しては、2万石を「お米」で与えられている。
2万石という、2人の弟よりは多い石高であるも、長武は不満であったらしい。それは「米」による支給で、領地ではないこと。これはスケールこそは違えど、言ってみれば一般の藩士と同じものであり、「大名」にはなれない。藩主であろうと、支藩主であろうと 1万石以上の「領地」を持つものが「大名」であり江戸城に座席を設けることができる。されど、1万石以上の「俵」を支給されていても、それは大名としては扱われないのだ。
特に二人の弟は「支藩主」として領地として与えられていることからも、その不満は大きかったようだ。
長武は甥の長成(万右衛門)
に対して、この不服を何度も伝えて交渉するが、長成は取り合わない。
おそらく長成ではなく、その側近の意思でもあろう。16歳の長成が考えるには事情が込みすぎている。
だが、取り合わない長成(の側近)と、前藩主長武の間には隙間ができ始め、それが確執として表面化し始める。 中には長武側が一計を画策し、他藩の藩主を口説いて将軍綱吉の生母・桂昌院を引き合いに出し、桂昌院の内意であるから長成は長武に謝るようにと説得させようとした事件もあった。結局これは長成側の調査で、長武の謀略であることが露見し、事実には至らなかったようだが、こうした悶着で将軍生母の名前が登場すること自体、本来ならば、「お家騒動」とされて改易の対象になりかねない事態でもあった。
長武の謀略はこればかりではない。
長成が津山城内の火薬庫を城外の山中に移転させようとしているのを見咎めて、これを「無断で新しい火薬庫を増設しようとしている」、などと幕閣に通報してみたりしている。 武家諸法度により、城の無断増改築は改易の対象であるから、そんなことが事実として表面化すれば、本家は断絶、(本家から扶持をもらっている)長武自身もまた身の破滅を招くのは必死であるから、本当にこれが事実なのかどうかはよく分からない。 そのほかに、領内の罪無き釣り人を手打ちにしてみたりと、傍若無人ぶりも激しい。
とにかく、そんなことばかりが記録として事細かく後世に残されている自体、長武の悪評ぶりは伺える。ただ、長武公の名誉のために言えば、これらがすべて史実として考えるべきではないということ。あくまで現代の週刊誌のゴシップ記事の類で考えるべきである。とはいえ、火の無い所に煙は立たないとも言う。よって、その判断は後世の人の想像に任されるところが大きい。
現在、歴代津山藩主について語る時、こうした史料を根拠に、長武公は藩を潰す遠因になった「暴君」と評するのが圧倒的に多い。しかし、僅かながらも長武を賛辞する史料も残っている。
生来の武骨者で、隠居した後も武術の鍛錬は欠かさなかったとも、実は国許ではそれほど悪い暴君ではなかったと書いている史料もある。もっとも13年の在位で半分以上を江戸で過ごしていた長武だ。国許に居た期間は短く、それほど悪評高い事実も少なかったのだろう。
その長武は、元禄9年5月18日に病で死去する。遺骸は寛永寺の護国院に葬られた。
本家との確執から、森家累代の菩提寺(江戸なら谷中の廣徳寺、または芝の瑠璃光寺か渋谷の祥雲寺)に葬ることを反対されたのか、それとも生来のブランド志向により、大金を積んで将軍家の菩提寺である寛永寺の子院を自ら志願したのかは定かでない。私見ではおそらく後者だと思う。
皮肉ながら、彼の逸話は死後も続く。
長武には子供が居なかった。そこで死に際して分家独立をしていない弟の中から、長基を選んで養子に立て、自分の2万俵の扶持を相続してくれるように懇願した。長基が2万俵を相続することで、少なくとも自分の墓守が居てくれるからだ。
だが、長基はこれを不服だったのか、それとも本家と敵対する家の跡取りになることを快く思わなかったのか、またはこの相続に対して本家からの圧力があったのか、病気と称してこの相続の手続き(江戸に出向いて将軍に挨拶をする)を一方的に放棄する。この事によって、長武の遺産2万俵は没収となり、本家に吸収されることと決まった。
さらに不幸は続く。
護国院に永眠の地を見つけた長武だが、その後まもなくして将軍綱吉が逝去。その墓地選定に、護国院の寺域が選ばれた。 筆頭檀家である将軍の墓所ができるのだ。当然長武の墓所も移転を余儀なくされる。そして新たに指定された護国院の寺域に改葬されるも、まだ落ち着くことは無かった。
今度は、維新後、数々の寺にあった墓石を青山墓地に一纏めとした際、この墓石も森家墓所に合葬されたのである。しかしここも安住の地とはならなかった。さらに大正初年に森宗家の菩提寺である赤穂の花岳寺へ運ばれて改葬される。これが現在の場所である。皮肉にもようやく見つけた安住の地・赤穂は長武の弟の1人、森長直公によって統治された2万石の小藩であった。自分と同じ2万石。しかし、その弟は領土としての2万石だった。(森長直は、津山藩改易後、隠居していた森長継の隠居料であった2万石を相続している。赤穂2万石はそこからきている)
死んだ後も、転々とさせられ、されど最終的に本家の墓所に入れたことを喜ぶべきか、それとも大金を積んで入ったのであろう高級ブランド墓地・護国院から出なくてはならなかった事を悔やむべきか、その判断、いや真相は泉下の長武公御本人のみ知るところである。
あれやこれやと論評を書いてみたけれども、一人の子孫として、310年前の菩提を弔いたい思いで一筆書き上げた次第である。