【第150話】忠政公の石灯籠 | blog.正雅堂

【第150話】忠政公の石灯籠

館林を発ち、足利市へ入る。


11:45 足利厄除け大師といわれる、龍泉寺に到着。

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ここには、津山藩初代藩主、森忠政公が2台将軍徳川秀忠公に献上した石灯籠の片割れがある。

今日訪れたのは、N氏とその拓本調査を行うためである。


・・・・なぜ、秀忠公の石灯籠がこの足利にあるのか。


この石灯籠はもともと、東京の芝にある三縁山増上寺に置かれていたものであった。
現在東京タワーや、東京プリンスホテルがある一帯は、徳川将軍家の墓所として壮大な霊廟建築が散在していた。初代将軍家康と、3代家光の墓所は、ご存知日光の東照宮と大猷院に。真ん中の2代秀忠の墓所は、この芝の増上寺にあった。

その後、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂、綱吉の母・桂昌院、それに静寛院宮と称された皇女和宮などが葬られ、そのほとんどが国宝に指定されていた。


しかし、東京大空襲によって、そのほとんどが灰燼に帰し、戦後になって国宝指定が解除された。敗戦によって疲弊した国力では、その修復は望めず、昭和30年代に徳川家などによってこれらの墓所が発掘調査のみが実施され、その後増上寺本堂裏に合葬された。


そうして整理された霊廟跡地は、現在に見るプリンスホテルや東京タワーへと変貌を遂げていったが、諸大名がそれぞれの被葬者に献上した灯篭は、一角に集められて放置されたままであった。
 その後、関東近県の寺院が中心となってこれらの石灯籠の引き取りが行われるようになり、その一基がこの足利の龍泉寺にやってきたというわけだ。
ご住職によれば、それは昭和58年のことだという。


通常、灯篭というものは2基で1対という勘定になるが、これは1基のみ。
損傷が激しく、引き取り手の無い石灯籠は処分されたり地中に埋設されたりもしたというが、おそらくもう一基は、この広い日本のどこかに今もあるだろう。


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(右)奉拝進 
(中)台徳院殿  尊前
(左)寛永九年七月二十四日 美作中将藤原朝臣忠政


(右)「拝進し、奉る」と解す。
(中)台徳院殿は 徳川秀忠の院号
(左)秀忠の命日と、森忠政の官号。森家は源氏だが、立場上の都合で藤原を称す。


ちなみに森家の寄進した灯篭は、龍泉寺のほか以下の場所にもある。
日光東照宮(石製2基1対) 森忠政寄進(美作侍従 藤原朝臣森忠政)
日光大猷院(銅製2基1対) 森長継寄進(美作国主 源朝臣森長継)
上野東照宮(銅製2基1対) 森長継寄進(美作国主 源朝臣森長継)


未確認であるが、同じく将軍家霊廟とされ、4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定などが眠る上野の東叡山寛永寺にも、森家歴代が寄進した灯篭があると思われる。こちらは調査できないでいるが、一部情報によると、損傷の激しいものは埋設保存(廃棄して埋立?)されたという。


また、芝の霊廟跡地を整理する際、価値のある銅製灯篭の多くは、狭山の不動寺(西武グループ創業者、堤家が自家の為に建立した寺)に納められた。ここにも何基か残っているものと思われる。


(家路へ向かう車中にて)