【第134話】市ヶ谷見附と森長継
「見附」という言葉がある。「赤坂見附」などは今も地名として残っているが、実は「見附」は江戸時代の「見張所」を意味する。当番制で選ばれた譜代大名や旗本がここに常駐して警備を勤め、外様大名は普請(建築)役を担わされた。
90近くに及ぶ江戸城の堀を囲む門にはほとんど、この見張り所が付けられた。それを総称して「御門」と呼んだり「見附」と呼んだりしたのである。「見附」の地名で有名どころを言えば、当時は四谷見附や市ヶ谷見附というものもあった。このうちの一つ、市ヶ谷見附は、寛永13年(1636)、私の先祖である津山藩主森長継公の普請によるものであった。場所はJR市ヶ谷駅前の神田川を越えたあたり。藩祖森忠政公から代替わりした6年目の春である。
この市ヶ谷の御門は枡形で、一つの門(高麗門)をくぐると、90度直角に曲り、もう一つの門(櫓門)をくぐるという形。現存する江戸城の遺構で言えば桜田門や大手門がその形で、多くの城の城門に見られる形である。大群して押し寄せた武者の勢いを落とさせる役目があったといわれる。
市ヶ谷見附は明治4年(1871)に道路拡張に伴い撤去されたが、今も「市ヶ谷見附交番」があり、かろうじて地名が残る。
(市ヶ谷見附交番)
撤去といっても、必要最低限のものであり、土台の一部は今も残る。よく観察すれば石垣に刻印が残り、森家の普請であることが伺われる。(石垣には運んできた大名を識別する印として刻印が残されている)
(石垣の刻印)
また、この市ヶ谷門には面白い特徴の石があった。それは「烏帽子石」と呼ばれるもので、明治の撤去時に日比谷公園に移設されて、現在に至る。
(日比谷公園の烏帽子石)
ちなみに、この市ヶ谷御門(見附)は桜の御門と呼ばれ、楓(かえで)の御門と呼ばれた牛込見附と相対していたという。現在ある駅前の市ヶ谷橋も、この御門が作られた時に初めて架けられた。
(社)霞会館が発行している鹿鳴館秘蔵写真帖 には、在りし日の市ヶ谷見附の写真が掲載されているが、版権の都合で掲載できないのが残念。興味のある方は上記の本を購入されたい。
通勤で日々この沿線を利用するが、「いちがや~」のアナウンスを聞くたびに、車窓からこの方向を眺める。