昨日から沖縄のやんばるに来ています。家を出たのが朝9時で、ホテルに着いたのは午後6時半。車の運転ができないので(生まれてこの方、免許証を持ったことがない)、那覇からバスを乗り継いできたんです。最後はバスもなく、事前に頼んでおいたタクシーに乗りましたが、運転手さん「こんなところまでお客さんを運んできたのは3年ぶり」と驚くこと驚くこと。金曜日までここに居て、最後は那覇に一泊して戻ります。
ここに来たのは、第一は、もちろん休養。この1年、ずっと走り続けてきましたのでね。これから5年かかると言われている裁判に備え、体力を維持する必要もあります。
もう1つ大事なのは、頭も裁判モードに切り替えないといけないから。除名後に再審査を求めたがんばったこの一年は、綱領とか規約とか分派とか、その他、共産党用語で頭が占め尽くされていました。訴える相手も共産党的な思考が通じるはずの人でした。
それって、これからも裁判の一部ではありますが、あくまで一部。これからは裁判官の心をつかむ必要があります。その背後にいる普通の国民の思考に合致する訴えをしなければなりまさせん。そのためには、1週間、そこを集中的に考えることで、頭も切り換えようと思ったのでした。
だから昨日、飛行機とバスのなかでは、樋口陽一さんの『自由と国家』(岩波新書)と、蟻川恒正さんの3つの論文(「思想の自由と団体紀律」『ジュリスト』1089号、1996年など)を読んでいました。勉強になりました。
『自由と国家』って、裁判に訴えることを表明する記者会見をした1月22日、ツイッターで流れてきたのです。部分社会の内部の処分を合理化する議論を批判したものではないかということで。
政党の除名を正当化する最高裁判決の考えのもとになっているのは、いわゆる部分社会論と言われていて、規約にもとづいてつくられた団体における除名は規約が適正に適用されているなら裁判所の審査は及ばないというものです。『自由と国家』はそこを突き崩すものではないかという主旨で流れた来て、あわてて目を通したのですが、今回じっくりと読んでみたというわけです。
最初に目を通した時は、関連部分だけでしたが、じつはこの本、全体が個人の人権と団体規律を論じるため、いろいろ論じているのですね。1689年の権利の章典から始まり、1789年のフランス人権宣言を核として(結社の自由を否定した)、1889年の明治憲法の性格を冷静につかんで、1989年の冷戦終了に至る意味を掘り下げています。その上で、団体にも個人と等しい人権を与えているような裁判所の判断がこの日本で横行していることの問題を告発し、それをどう克服するかを論じているわけです。樋口さんは政党と個人についても同じ考えを持っているようです。その一番弟子が蟻川さんだというので、論文も取り寄せてみたのでした。
裁判で私は、現在の判例の枠内でも除名が不当であることを訴えます。同時に、判例を覆して、結社の自由と結社内の個人の言論・出版の自由の問題で新しい規範を作り上げたいと思っています。そのために、こういう論理を深めたいのです。
これは近くお二人に会いに行かなければ。会ってもらえるかな。