半年ぶりの記者会見で、ちょっと疲れました。直前になって、お話しすることの内容というか、アプローチを変えたので、直前まで準備したこともあります。現在の大多数の党員の気分にあわせて、除名処分の不当性を訴えるというより、現在の先行きの見えていない党がどうやったら現状を打開できるのか、いっしょに打開しようという訴えにしたいと思ったので。

 

 ということで、会見で配布した資料のなかで、使わないものも出てきました。そこを少し開設しておきましょうか。その前に、昨日の会見の直前、YouTube配信の本格始動でアップした動画を紹介しておきます。

 

 

 

 50年問題を深めなければならないと、いったん古本屋に出した『日本共産党50 年問題資料集 』(新日本出版社)などを、再購入したことは紹介しました。その2冊目に、分派として除名の対象になった宮本顕治の反論文が載っています。以下のようなものです。

 

*「分派活動の全貌について」にたいする反論(1957.12.5 宮本顕治 )

「増田春雄の家族と私は同一建物に他の数世帯と住んでおり、増田が家族のもとに帰れば、上級機関の同志としての私を訪れてあいさつするのは当然である。顔を出さない方が不自然である。こんなことまで数えあげて私の「分派活動」をデッチあげようとする心事こそむしろ問題である。 

 私は『分派』の規定についてはレーニンの規定『特殊の政綱をもち、またある程度閉鎖的となり、それ自身の党派的規律をつくろうと努力するグループ』の趣旨をのべたものであり、これはテーゼ草案への意見の中にもその趣旨が明記してある。」

 

 増田春雄というのは長崎県委員長。その家で寝起きしていた宮本が、増田との分派を疑われたのですね。そこで、同じ家だから挨拶するのは当然だろう、それを分派とするなんておかしいだろうと反論しているわけです。まあ、本の出版時期をあわせた私と鈴木元氏が分派だというのと同じことが、50年問題でもやられていて、宮本が攻撃されていた。

 

 興味深いのは、じゃあ分派とは何かという宮本の考え方です。レーニンを引いて、自分なりの定義をしています。

 

 「特殊の政綱」をもっていて、「閉鎖的」で、「それ自身の党派的規律」があるものが「分派だ」と反論しているわけです。自分はそんなものはつくっていないと。

 

 宮本に倣って言えば、私の鈴木氏の間には「特殊の政綱」はありません。だって、そもそも、綱領は正しいという私と綱領は間違っているという鈴木氏が、「特殊の政綱」を持てるはずがない。

 

 「閉鎖的」というのも当たらない。だって、本の出版時期を調整して揃えたことは、週刊誌の取材に答えて、どうどうと世に明らかにしているのです。そうしないと、本への注目を集めて販売を伸ばすという、調整の目的が果たせないのですから。

 

 「党派的規律」もない。何もない。

 

 それをいまの党中央は「分派」だというのですから、宮本の教えにも反しているのです。まあ、その宮本も、田口問題などで豹変していくわけですが。なお、田口・不破論争を総括してほしいという要望がコメント欄でありましたが、今回出版した『不破哲三氏への手紙』のなかで、私の考え方は詳しく書いています。

 

 なお、前出の増田春雄氏は、長崎で党活動をしていた私の父親(50年問題で離党)の指導者でもあって、その後、私が大学生になるまで、何回もお会いしてお世話になりました。その増田氏は、私に会うと、50年問題の分裂を克服する過程で党中央が発した「復党を呼びかける手紙」を保存していて、よく見せてくれたものでした。その増田氏が長崎県委員長をしていたことは、この資料集を読むまで知りませんでした。これも除名されたおかげですね。(続)