共産党が刊行した「松竹パンフ」に反論する文書を書こうとしたが、それでは低水準の議論につきあうことになって、まともなものが書けそうにないので、共産党の2000年の規約改正、2004年の綱領改正の意味、背景を論じる本を書くこととしたと、先日のブログで書いた。夏に刊行予定である。

 

 そこで本日から、その本の問題意識について、アトランダムに書いていく。いくつかのテーマに分かれた本なので、このブログ記事のタイトルもテーマにつれて変わってくる。

 

 まずは、不破氏の1983年の自己批判のことである。これは2000年の規約改正を論じるうえで不可欠の問題だ。

 

 いまではあまり知る人もいないが、40年前の1983年7月に刊行された共産党の月刊誌『前衛』(8月号)を目にした読者は、誰もが驚いたと思う。何と、不破氏と上田耕一郎氏が、そろって「自己批判」文書を寄稿していたからである。共産党が「50年問題」と呼ばれる深刻な分裂を経験していた1950年代、二人が連名で『戦後革命論争史』(上巻が56年、下巻が57年)という本を出版したのは間違いだったと明らかにしたものであった(タイトルは、不破氏のものは「民主集中制の原則問題をめぐって――党史の教訓と私の反省」、上田氏のものは「『戦後革命論争史』についての反省――「60年史」に照らして」)。

 

 読者が何に驚いたかというと、不破氏は前年に就任したばかりとはいえ、すでに党の委員長を務めており、上田氏は副委員長だったことであった。通常、共産党内における自己批判とは、間違いを犯した党員に対して党指導部が強いるものであって、最高指導部である2人が自己批判を行い、それを公開の雑誌に掲載するなど、異例中の異例の出来事だった。自己批判書の公開は、それ以降の40年の党の歴史のなかでも私一人が加わっただけなほど異例なものであるが、最高指導部の自己批判なのだから、異例さは際立っていたのである。

 

 そんな過去の問題をなぜ私が夏に刊行する本で論じるのか。それは、自己批判の対象となった不破氏らの行為と、今回、除名に至った私の行為が、きわめて似通ったものだからである。

 

 不破氏の自己批判の中心点は、まだ職場の党支部に属していた一九五〇年代半ばの時期、「党内問題を党外にもちだし、党外の出版物で『50年問題』や党の綱領問題を論じるという、自由主義、分散主義、分派主義の典型的な誤りをおかした」というものだった。「党内問題を党外にもちだしし、党外の出版物で」綱領や規約を論じたというのは、今回の私の除名理由と同じであり、私が比較したくなった理由を理解して頂けると思う。(続)