この論文は、直接に私を批判したものではない。「「朝日」コラムにあらわれた“反共主義という呪縛”」というタイトルで分かるように、朝日新聞の「社説」欄に「序破急」というコラムがあるのだが、そこに書かれた「『民主集中制』という呪縛」という論考への「反撃」である。

 

 そういうこともあって、谷本諭さんの「反撃」の全体についてはコメントしない。メディアによる政党の内部問題批判を「「結社の自由」への介入、民主主義破壊の行動」とまで言ってしまったら、メディアが自民党の派閥争いを問題にすることもできなくなってしまうし、共産党がそこまで求めるなら自民党からは歓迎されるだろうが、メディアは言論機関としての役割を果たせなくなってしまう。まあ、でもその問題は、それを言い出した志位さんの記者会見を批判する際にでも、まとめて論じることにする。

 

 谷本論文の最大の特徴は、「『民主集中制』という呪縛」コラムが述べていることを、まったく理解しないで「反撃」を加えていることにある。いや、理解はしているが、コラムの中心点を紹介してしまったら、日本共産党にとって不都合なので隠しているのか、それは分からない。とにかく、何を述べているのかを一行も紹介しないまま、ただただ別の問題での批判を書き連ねており、それで反論したと思い込んでいることに特徴がある。

 

 どういうことか。谷本論文では、「(民主集中制という)同じ言葉を規約や憲法で用いている中国共産党の事例を持ち出し、日本共産党を中国の党・政府と同列視する議論まで展開しています」としている。それを紹介すると、「ああ、朝日のコラムは民主集中制を批判しているのだ」「日本と中国の共産党を同列視して批判しているのだ」と読者は思い込むだろう。これを読んだ党員や読者は、いくらなんでも中国と一緒であるはずがないと、それだけで朝日のコラムには目を向けなくなるという効果は期待できるのかもしれない。

 

 しかし「朝日」のコラムは、そんなことは書いていない(コラム子の本心は分からないが)。このコラムの核心は以下の通りだ(と私には思える)。

 

 「民主集中制は、……『民主的に議論し、決定したら統一的に行動すること』を指す。それなら、公選で指導者を民主的に選び、当選者を統一的に支持すればいいはずだ」

 

 つまり、谷本さんが強調するように民主集中制を批判したものではない。それとは正反対に、民主集中制と党首公選は両立するのではないか、日本共産党はこの組織原則を堅持したままであってもいいから、党首公選をしたらどうか、その選挙での「当選者を統一的に支持すれば」、民主集中制の原則を維持したままで公選はできるでないかと、このコラムは問いかけているのである。(続)