「(3)松竹伸幸氏は、『週刊文春』1月26日号において、わが党に対して「およそ近代政党とは言い難い『個人独裁』的党運営」などとする攻撃を書き連ねた鈴木元氏の本(1月発行)を、「『同じ時期に出た方が話題になりますよ』と言って、鈴木氏には無理をして早めに書き上げていただいた」と出版を急ぐことを働きかけたことを認めています。松竹伸幸氏はわが党のききとりに対して、この本の「中身は知っていた」と認めました。この行為は、党攻撃のための分派活動といわなければなりません。」

 

 事実関係についてはこの通りで、反論しようがありません。しかし、このどこが問題で、なぜこれが「分派」になるのですか。

 

 2月2日に京都南地区の事務所で行われた調査の際、このことを聞かれましたが、私が説明したのは出版社の事情でした。いまどきの出版不況のなかで、どんなにすぐれた本を出しても、それだけで売れることはありません。そういう場合、1冊を孤立して出すのではなく、複数の本を連続的に出版することができれば、書店の棚を賑やかにすることができるので、書店からの注文も増えますし、読者の目にもとまりやすくなります。そんな事情を説明したのです。

 

 そうしたら、京都府委員会から調査に参加していた方が、「ああ、そうか、販促(販売促進)の観点でのことだったんですね」と納得してくれ、他の方も誰も問題にしなかったので、この問題での調査は終わったのです。そして、私の分派活動の根拠は、自分の本を出して党首公選に対して全国の党員に同調を求めたことが「分派活動だ」という論点に移り、それをめぐって議論が闘わされたのです。これは平行線のまま終わりました。

 

 だから、この「除名処分通知書」が届くまでは、私の除名理由は自分の本を出したことになると思っていて、鈴木さんのことが問題にされるなど、まったく考えてもいませんでした。ところが、全国の党員への同調呼びかけという論点はまったくなくなり、分派の根拠は鈴木さんの本を出したことにしぼられたのです。なぜそんなことになったのか、その理由をいちばん知りたいのは私です。調査の場で納得してもらったものが覆ったのですから、調査に参加しなかった人が、この文書に何らかの影響を与えたとしか考えようがありません。これでは調査の公正性が疑われると思います。

 

 なお、「通知書」では、私が鈴木氏の書いている本の「『中身は知っていた』と認めました」として、それをも「分派」の根拠としています。出版社の本の編集者が、自分の担当している本の中身を知っているって、当たり前のことではないですか。原稿を読まないで本を出す編集者がいたら、解雇されても仕方がないほどのことです。

 

 分派の本来の意味は、政策や信条が異なる複数で派閥をつくり、主導権を握ろうとすることです。本の刊行時期を相談して調整したことが「分派」とされるなら、共産党員同士が会話して、党に対して批判的な言及をすることが、すべて「分派」ということになりかねません。今後、共産党員は恐怖を感じながら暮らすことになってしまうでしょう。

 

 私と「分派」をつくった鈴木さんはどうなるのか。共産党はジレンマを抱えています。

 

 もし処分されないなら(私はそれを望みますが)、党外の出版物で党を批判しても、それ以前に中央に意見をあげていればおとがめなしの前例ができるので、党のあり方を根本的に変えるものとなります。鈴木さんが分派でなくなると、私1人で分派とは言えなくなるので、私の処分も一段階は減じられることになるでしょう。

 

 もし処分されるなら、松竹の問題は意見をあげないで党外出版物で批判したことにあるとした理屈が崩壊し、意見を内部であげようがあげまいが結果は変わらないということを全党に示すもとなります。そうなると、内部で意見をあげるという党規約には、はたしてどんな意味があるのか問われるでしょう。(続)