さて、共産党が朝鮮戦争の問題で見解を変えたのは、88年9月8日に公表された「朝鮮問題についての日本共産党中央委員会常任幹部会の見解」であることを紹介した。そこに、「(北朝鮮が)南部全面解放による朝鮮統一の立場から軍事行動をおしすすめた」ことが指摘されているからだ。

 

 ただ、いま引用した文章は、北朝鮮が武力で南を解放する方針を持っていて、実際に軍事行動を起こしたことを書いているだけで、北朝鮮が先制攻撃したと書いているわけではない。本音がそこにあったことが明らかになるのは、翌年3月11日付の「赤旗」であり、そこでようやく「(昨年9月8日の見解は朝鮮戦争が)北の計画的な軍事行動によってはじめられたものであることを明らかにし」「アメリカの朝鮮への侵略だとする従来の主張を改めた」ものだとされたのである。

 

 私も88年、この見解を見たのだけれど、それだけでは大きな転換がなされたとは思えなかった。民青同盟の国際部長をしていたので、党中央から説明を受ける機会があって、ようやくそうなのかと分かった次第である。

 

 党中央のその時の説明では、この見解は北朝鮮の世襲制度をも批判したとされたのだが、そう読み取ることは困難なほど、全体がおだやかなというか、あいまいな書きぶりなのである。外交用語というのは、たとえば国連憲章で武力行使が禁止されたと一般的には言われているが、憲章には「禁止(prohibit)」という言葉はなく、「慎む(refrain)」とされているように、直接的なものの言い方をあまりしない。それと同様、この見解も、外交的に配慮された言葉を使いまくっているために、党員には転換したことが伝わりにくかったと思う。

 

 なぜそんな配慮が必要だったのか。そこは正直、分からない。1983年にはラングーン事件もあって、共産党は北朝鮮を名指しで批判し、労働党との間で公然と批判の応酬をする関係にあった。88年には大韓航空機爆破事件が起こり、宮本顕治さんが一般のメディアに先駆けて「北の犯行」だと容赦なく断定し、世の中を驚かせていた。

 

 それら頻繁に起きる事態を受けて、朝鮮戦争に関する見解まで転換しなければと決断したのだとは思うが、朝鮮戦争や台湾問題というのは、共産党の61年綱領のバックボーンを形づくったものである。戦後の世界を脅かしているのは、すべてアメリカ帝国主義とそれに付き従う独占資本の国であり、社会主義は平和勢力だというものだ。だから、ソ連や北朝鮮が何をやっても、ソ連のチェコ侵略や北朝鮮の横暴は重大だけれども、その枠組みを変えないままで対応していた。だから、朝鮮戦争に関する見解が転換することは、当然のこととして、綱領の世界観は正しいのかという問題に通じる性格を持つものだったから、そこが関係しているのかもしれない。

 

 ただ、朝鮮戦争をどう見るかという問題は、当時、共産党だけの弱点ではなかった。社会党が68年の青瓦台襲撃未遂事件以降、北朝鮮に取り込まれていったことは紹介したが、公明党も同じだった。

 

 公明党が北朝鮮に最初の代表団を送ったのは1972年である。竹入委員長を団長とするもので、金日成主席に礼賛の言葉を連発した。公明新聞72年6月10日付には、アメリカは「1950年の朝鮮戦争時には一連の安全保障理事会決議によって共和国を『侵略者』と決めつけ、国連軍(じつは米軍)の名を騙(かた)って38度線を越えて武力攻撃を加えた」と書いている。74年の「公明党に関する50問50答」(『公明』臨時増刊号)も、「朝鮮戦争前後の米国の行動を見ると……朝鮮戦争が起こったときには一連の安全保障理事会決議によって、北朝鮮を『侵略者』と決めつけ、国連軍(主力は米軍)を派遣し、武力介入を行なったのです」とのべている。

 

 それらと比べれば、共産党の対応はかなりマシなものではあった。問題は、朝鮮戦争で形づくられた世界観が生き続けたため、その後もいろ

いろな荒波をくぐり抜けなければならなかったことである。(続)