政策ベースの話で言うと、日銀の独立性という問題について、共産党も含めて1997年時点でほとんどの人が理解していたのは、「政府からの独立」を意味するということであった。政府(国会議員が選ぶ)というのは、票ほしさに短期的な利益に目がくらむので、長期的な視野に立って金融政策ができるよう、政府からの独立性を確保しようという理解であった。

 

 しかし、不破氏が述べたのは、それとはまったく異なって、日銀の独立性とは「大資本、大企業からの独立」ということであった。民主連合政府になれば、政府が日銀を大資本、大企業の言いなりにならないよう監督し、日銀を有効にコントロールして金融政策を進めなければならない。それなのに政府の統制をゆるめるような法改正には反対すべきだというものであった。そして、党議員団もそれを受け入れ、最終的には反対という態度をとることになったのだ。

 

 この連載のテーマにとって大事なことは、こんな重要なことが、あまり表沙汰にならないため(さすがに衆参の態度が異なったので当時はマスコミの記事にはなったが「赤旗」しか見ない人は気づかなかっただろう)、党員がこの問題を考えるようにならないことだ。いつだったか、党員の友人のなかで「日銀の独立性」が話題になったとき、みんな共産党の立場を誤解していて、「政府からの独立性」を意味すると信じ込んでいた。

 

 いや、ヒラの党員だけではない。当時この問題にかかわった人にとっても、過去の問題になっているのではないだろうか。

 

 今年5月、まだ存命していた安倍元首相が「日銀は政府の子会社」と発言したのに対して、共産党の穀田恵二国会対策委員長は、「とんでもない。妄言、放言もいいかげんにしてほしい」と述べたという。そして、安倍氏は日銀の独立性を理解していないとも強調したとされる(5月11日、日本経済新聞)。

 

 穀田さんにとって、日銀の独立性とは政府からの独立性なのである。そういう考え方の法案に最終的に反対したことは忘れてしまっているようだ。

 

 たしかに、安倍さんは、アベノミクスを成功させるため、まさに「日銀は政府の子会社」のように扱ったと思う。でも、97年に共産党が最終的に日銀法改正に反対したのは、政府による日銀の統制をゆるめるものだったからだということを考えると、民主連合政府になったら、アベノミクスとは政策の内容は違っても、日銀への監督は強めるのではないだろうか。

 

 それなのに、当時の議論に加わった国会議員さえ、その問題を忘れている。だからこそ、こんな大事な問題で党内に政策的な争点があることを明らかにし、議論して共通の理解に達することができるようにするためにも、党首公選は不可欠なのだと感じる。(続)