参議院選挙も終わり、落ち着いて物事を考えられる時間と空間が得られるので、このテーマのことを考えてみたい。アトランダムになるけれど。

 

 昨日紹介した「朝日」をはじめ、党首公選を求める声は少なくない。SNSを見ていると、共産党員と思われる人も、そんな発言を活発にしているようだ。

 

 一方、共産党のことをよく知っている人であればあるほど、その実現性には懐疑的であるように見える。いくら希望が多いからといっても、とっても無理だよという感じだろうか。

 

 では、なぜ無理だと考えるのか。現行の党規約がそのようなことを想定していないという問題もあるだろう(それが本当なのかは連載のどこかでふれる)。

 

 しかし、この問題を考える上でいちばん大事なのは、それが共産党にとって必要なことであれば、障害があってもそれを取り除き、実現することだと思う。これまで100年の歴史のなかでやらなかったのだから、これからの100年もその「伝統」を受け継ぐというのでは、時代の変化に対応して生き残り、政党としての使命を果たしていくことはできない。

 

 現在、共産党だけに党首公選の仕組みがなく(あとで書くように公明党にも存在しない。公明党と同じだなんて恥ずかしいな)、他党には存在するので、その違いを政党のあり方、成り立ちの違いからくる普通のことと受け止めている人もいるかもしれない。しかし、日本のほかの政党も、設立いらいずっと党首公選などはしてこなかった。党首公選は、時代の変化、世論の変化をふまえた新しいシステムなのである。

 

 日本で最初に党員が党首選挙に参加できるようにしたのは自民党である。金脈問題で倒れた田中角栄のあとを受けて誕生した三木武夫首相が、76年に退陣を余儀なくされた際、党改革の一環として全党員参加による総裁選挙の実施を提言したのだが、それが2年後に実現して78年、大平正芳氏は全党員による予備投票を経て総裁に就任することになったのだ。

 

 自民党は、田中金脈問題で、党存亡の危機を迎えた。その危機を三木さんを党首に据えることで乗り切ったが、三木おろしをするにあたって、旧来型の自民党に戻ると思われたら、再び国民の支持を失うかもしれない。その危機感が党首公選に結びついたのである。

 

 要するに、党首選挙のあり方というのは、その時代、その時代の国民意識が左右するということだ。民主集中制だからできないとか言っていては、時代と国民に取り残されるということだ。その現実をふまえ、他の政党も自民党に追随した。

 

 他の政党では普通のことが、なぜ共産党だけできないのか。その問いに説得力を持って答えるのは難しい。権力から物理的に弾圧されていた時代とは違うのだし、国民の政治参加への願いはどんどん高まっているのだから、政党がそれに応えて新しい挑戦をしていくのは自然なことだと思う。(続)