識別 教皇講話集/教皇フランシスコ/カトリック中央協議会事務局【3000円以上送料無料】
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昔ガンダムUCのアニメに関与した際に、一部の声優の、作品に対する理解が遅滞していた為に、演出が不十分なものに終わったということがあった。声優の躍進とアニメの(内部での)キャラクターの処遇は、独立であるべきなのに、マリーダの脱落をご都合主義的に視聴者迎合の陳腐な展開にしてしまったことは、今でも大きな失敗の一つであると思っている。
当時のアニメ制作会社の通念と独断を、安易に一般化しようとした業界関係者の判断は誤りである。日本国内の用語が、英語に帰化することが無いように。
『新共同訳聖書』の「マタイ福音書」24章32-35節には、次のようにある。
「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝や柔らかくなり、葉が出てくると、夏の近いことが分かる。それと同じように、これら全てのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていることを悟りなさい。よく言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」
ロゴスが実在することは、以上のように理解される。人間の可動性と、その根拠ともなる各種の実在についての見解には、所定の相違がある。
ブエノスアイレスと東京では、国際感覚にも、歴然とした相違がある。日本には、東京タワーのような電波塔を国際的な福利に高める文化水準が無いことは、東京都の建造物等を魚類やキノコ類の偽物に置き換えてしまう、愚劣な現実を意味している。畳の標準的な規格である江戸間の一畳の大きさは、短辺が88cmで長辺が176cmである。それよりは大きい中京間は、メートル法を踏まえたものであると見做せる。身の丈を越さない自然主義的な耕作は、110畳から138畳を越さない範囲(2アール)までで堅固に達成できると言われている。日本の建築界の技術力でも、現況以上の理想的な建築は可能で、残念に思う。
トンプソンの季節が終わりを迎える頃にざっと調べた限りでは、フランシスコの自著は、前教皇同様の習慣で展開している。ペテロとパウロへの言及は今更不要であるが、ジャーナリズムや政界を揶揄するような言語的な活動は、役職上の現実の夢幻との相違が、肥大した人類の神とは相違する愚かな現実を意味している。教皇の愚直な努力が多くの人の心に届くだろう。
この凡そ50年のブエノスアイレスを体現したフランシスコは、通俗的な意味での野心的な人物ではなかったと思っている。その他方で、非常に瑣末な国際的なロゴスを担った活動的な人でもあるとも思っている。心よりご冥福をお祈りします。
上掲リンクとなる本ブログのプロフィールページでは、デカルト的方法に対する反定立として、アーキビストを踏まえた上で、原初的かつ初歩的な現実に触れています。
プロフィールページのフリースペースでは「ポリシーと予備知識」と題し、縮約と換言を念頭に置き、本ブログの第一歩についての格率をしたためました。
その上で、多くのブラウザーとブロガーには、馴染みが無い筈の、本格的な絵画制作を主体的に検討する際の要点を、要約してあります。
勿論、私自身の絵画制作についてのものですが、多くの人が絵画を見つめ直し、現存する芸術様式の絵画批判にご賛同頂けることを切に願っています。
ギルバートライルが指摘している通り、彼が唱えたトリレンマには主に2つの表情があります。3項関係の問題は、沢田允茂世代の論理学者の課題でもありました。野家啓一世代の科学哲学者にとっては、線引き問題の課題でもあります。そのことを踏まえて、現存の芸術様式である絵画批判を念頭に置き、現代の絵画の制作者にも、この時代の同席者にも、理解が可能な視点であることを想定し、哲学と画学と色彩科学に触れます。
プラトンは絵画批判に関して、その主著『国家』で、教育の有用性と可能性を説いています。言い換えると、絵画の問題を改悪する画家の活動を理性的かつ合理的に是正するには、教育の実現と達成が手掛かりになるというのです。絵画の問題を改悪する画家の活動が、どのような原因によって生じるのかを考えてみて下さい。
佐藤一郎画伯に反対し、画家同士の安易な結託を過度に信用しないことは、アカデミーの建設的な再生の展望を意味する場合があります。シャルルバルグの絵画アカデミーに対する安易な姿勢は警戒されるべきもので、パックスブリタニカに秘められた助力と希望を主体的に再解釈するべきです。グレシャムの法則を超えた、画家の結託に内在する醜悪な作用は、脱構築が可能な、幸福な展望を内在する悩ましい課題です。国民単位での正確な言語運用に見出される斉一性を伴い、各人の偶有性を踏まえて穏健に展開する各種の行為は、単なる絵画ではありません。
色彩に対する教育の問題は、画家やイラストレーターやデザイナーの一部に関しては、教育者のアルバートマンセルに端を発するという視点があります。その著書『色彩の表記』には、現場の技術者の当時の過誤に対する理性的な反省が、生理的にも、示されています。しかも、当時最も重要な哲学者の一人であったウィトゲンシュタインが、記憶重視のマンセルの色彩教育に反対しています。色彩科学の歴史は決して浅いものではないですが、技術的な体制の確立期の対立と衝突が、非常に複雑だったことは、現存する資料からも看取される事柄になります。
上掲リンクのホームページでは、主に、油彩や水彩の作品を、公開しています。そのうえで、それに随伴する情報の一部を、着想と提案として表明しています。典拠の正当性については、該当する各著述のフットノートとして提示している既存文献である参考資料を、ご確認頂だければ幸いです。読解の手引きとしては、勁草書房の『引用する極意 引用される極意』と青春出版社の『90分でコツがわかる! 「論文&レポート」の書き方』をお勧めしています。
残存する原典の管理と正当化については、アウグスティヌスの世代によって確認された人間主義としてのポストプラトニズムを超過し、人類単位での厳正なロジスティクスの徹底が、必要な段階に達しています。つまり、デジタル技術の発達により、ジョンロックが『人間判断力についてのエセー』で予想した記号論の実現が生理的に理解される段階に達しているのです。
岩波書店のロングセラーであっても、明示的な改版以外にも、多くの変動を余儀なくされているが、それはヘラクレイトスが述べた自然の表情に過ぎない。角川書店の『数学の世界史』(2024)の「図版の出典」(364頁)の図Eと図4-6は、現存の絵画批判についての、有益な情報源である。それは認識論と行為論が歴史学によっては侵害されないことを示している。
1990年に確認された歴史学との共同研究に際して留意することは決して多くはない。幾人かの歴史学者が唱えた、歴史哲学としての表情は、分析哲学をも含めた、哲学研究の基幹原理の内部には定位されない。哲学の原則、普遍学並びに厳密学との共同研究が意味するところは、歴史の客観性は、人間の自由と哲学研究を全面的には置き換えないことである。ここで可換性を、哲学研究と歴史研究について検討すると、認識の原理から、人間の可動性についてのことが言える。例外があるとするなら、それは歴史哲学に他ならない。
ホームユースの、パーソナルコンピューターがコモディティやファニチャーに匹敵するオルガノンになる。そういう日を夢見て活動していこうと思っています。各種の電子端末の拡張性の卓越は言うに及ばず、その電子端末相互のアクセシビリティーとユーザーインターフェースの多様性の現実は、旧来から言われている通り、一部の限られた人々の個性を反映しているに過ぎません。
電子端末の生産時期や性能によって限定されたウェブデザインは、非常に伝わり難い狭量さを獲得してしまうものです。タイムマシンが、パブロピカソが花を添えたMacに、実装されてからも、最新鋭のデジタル機器の生産ラインが経費削減や規格策定に象徴される非常に細いコンセプトによって、限定されてしまうものになっていることも、その原因であると言えます。
ライプニッツが唱えた普遍学との実相の相違をどのように捉えるのかを、改めて考えてみて下さい。
1 概要
本邦では今以上に重要性が増す事柄の一つにジオエコノミクスがある。既存経済理論には、幾つもの欠陥があるが、それ以上に、既存歴史学の現象的な表情としての内容がある。既存物理学と同様、アングロサクソンがその中核的な担い手の一翼であり、経済学者擁立の背景を教えてくれる。最たる例外は、マルクスであり、地中海世界の統一がどれだけ重要であったのかを示している。裏を返せば、ヨーロッパ哲学とは、アフリカ世界の統一とアフリカ世界による擁立によって存立した地平であり、残された世界の主体性が無視されていた訳ではない。
合金には、純金属の活力的能動性の問題、鉱滓の問題、割り金の選定の問題以外にも、残余の問題がある。剛体の理論の多くは、金属生産と金属活用の問題であった。そして、珪素生体の創作が現代人の日常生活とそれにまつわる思想に揺さぶりを掛けている。
タレスは、自然の原理を水と道破したことで知られる技術家であり、最古の哲学者に他ならない。水は酸化二水素の異名でも知られる非金属の化合物で、各種の水溶液の性質もよく研究されている。水素と酸素は共に「反応性非金属」と称せられる所定の活性が知られている。主として自然科学者に帰せられる、技術的かつ分析的な論理を、『聖書』は全面的には認めていない。その最たる物質が、食塩であり、水である。
ジオエコノミクスでは、大陸の同一性と民族の同一性以上の同一性もが認められる。同一性と技術性についての処方の原理は、経済原理を仮定させること以上に、そこに同一性を承認させ、経済活動を説明しときに修正する、本質的な原理である。
2 主食と分析化学
33年近く前に北海道で聞いた話を踏まえて綴る。国内の牛乳の乳脂肪分を「成分無調整」で3.6%にすることが大変だった時期があったことが知られている。国内の成分無調整牛乳を冷凍するとクリームが分離する。これは「成分無調整」の策定方法の一端である。乳脂肪分と脂肪分を比較してみると一致しない。これは特定方法が相違する為でもあるが、結局、脂肪分には、乳脂肪以外に、飼料誘導体以外にも食品添加物が含まれていることを意味する。一般に、キャリーオーバーとして知られる事柄だが、キャリーオーバーの意味も、行政官の思惑などで変動している。無論事情は、国内の事だけではないが、国力を踏まえても釈然としない現実である。悪貨は良貨を駆逐するというグラハムの知見は、遥か以前から存在する。国府が地方を作り、地方が特産物を支えなければ、公益は成り立たないだろう。他人の都合を踏まえて、自己を立脚しなければ、法と経済は意味を為さない。
国内の牛乳は、飼料による食味強化やデオドラントの傾向以外にも、気になる表情が幾つか挙げられる。ホモジナイズを始めとする攪拌工程の個性に見受けられる偏り、塩分、アミノ酸等、以外にも、バニラ臭に代表される課題もある。低温殺菌については、ミルク生産と消費が低調な文化圏で肥大した販路の矛盾を乗り越えていない低等な新基準の捏造であるとして、ヨーロッパによって糾弾された。
それはそれとして、国内の牛乳に1/50程度のフレッシュクリームを添加すると、前述の食味の課題が緩和される事態が観測される。用途は異なるが、純理論的には、ラクトースを添加すれば、物性の改善が期待できると言う。結論を言えば、国内の牛乳を最も牛乳らしくする必要は皆無で、実質的には、改善が期待できない。ヨーロッパでは、ラクトースの科学的な信頼性は低く、牛乳らしさが有する各種の性質を代替するとは見られていない。
このように、常識や通念に対立する分析化学の課題は多くあり、生理学や哲学にも通じる非常に重大な問題を秘めている。常識と実践の整合性を何が保証するのかを多くの人は理解していないが、一部の専門家の逸脱や認識の漏れを、単に看過していると、自らを悪用する嘗ての自分によって、他人を破壊することになるのである。ニーチェはこのことを深く反省し、ゲルマン人のほぼ全てに対する反対の意見を示したが、悉く退けられた。それは、ゲルマン人の人間本性に反したニーチェの主張が、理解されなかったからである。当時の叡智の代表であったヨーロッパで起きたその一件が、プラグマティズムの台頭と後の社会学の哲学に与えた打撃は大きい。今日では更に、アメリカ合衆国が主導する管理の図式が半透明になり、キノリンをアゾ色素のようにした鶏油が重油以上の悲鳴を挙げている。人間相互の影響作用に関して、感覚を主観的に充足させる情報は出揃っていると言ってしまった方が良い。結局、自我の相剋を超越しない闘争を原点とも視点とも到達地点とも帰着点ともする人間が、記号的な範囲での一致という幻想を安易に正当化してしまう為に、他人の現存する自意識を無意味な物質か何かと同一視しているのだ。それは、穏健な加工理論には粗雑な低級品を渡し、鳥篭のような人々にはお菓子に対しての褒め言葉の展開、つまり、ドリーミーでハピフルであることなどを意識させる、危険な加工方法には高負荷のサスティナビリティを前提とする高度な関門を設定するのだ。
3 認知科学と対立する既存食品科学までの記号学的自覚への反駁
3-i 要旨
既存食品科学までの記号学的自覚の最大の先例の一つは、アングロサクソンが誘引した記号学を視野に収める方法論である。それはつまり、クワインが唱えた煩雑さとは何だったのかを意味する。その意味では戦後哲学の泰斗クワインが忘却したアリストテレス哲学とは何だったのかである哲学の伝統では、ジェイムズへの理論上の回帰と、現在との相違についての検討が、焦点となる。
加熱調理などの調理工程と、調味料の添加などの食味の変更と改善を区別するべきである。その上であの、無段階のシーケンシャルなプロセスと区別すれば十全な理解が得られる。
乾電池と所定のバッテリーの使用法の点検を含めた電気代の統一的な削減、ガス代の自然科学的かつ人文社会科学的な精査、水道料金の金額調整を含めた、抜本的かつ包括的な経済活動の合理化と節約が有効である。
既存の固定費に目を配り、料金徴取の制度の本質を見抜き、エネルギー論的な反省を加え、行動を改善することが必須である。人間が有する可動性は、認識と自覚の齟齬にも直結する危うい性質である。
食品全体の変遷と変容をどのように理解するのかである。現在のタイ王国がアジアの代表権を発揮するかのような象徴的な活力を示したイネは、歴史的な意義を超えて精神的な性質を発揮している。鶏はあたかも先駆的決意性として振る舞う(リンク:[バニラ撲滅])。
聖トマスの彼方で理解されたアングロサクソンの至高の輝きを、正しく理解するべきである。論理が瓦解すれば、人類は文字通りの意味で全てを失う。クワインの努力はこのことを回避する希望でもあった。
3-ii 工業的方法による弱体化が示す個物と力学的な図式の実在
産業革命以降、工業的方法による弱体化が高い有用性を示している。フランス共和国では、料理は芸術である。料理は簡素な調理以上に贅沢であるとして批判の対象にもなる。その他方で、愚劣な画家が牽引し肥大させた享楽は、今や芸術ではない。それは、自由の暴露によって獲得される知識が存在しない為でもある。工業化によって合理化された芸術の95%以上は、単なる享楽と放蕩の残骸に過ぎない。埋葬された資本家を指し示すあの芸術は、その意味で理解されているべきである。
水選びは、共同体の環境とも太陽光と空気と水とも関わり合う。本邦で示された選択とハイデカーの繋がりは、自己自身を選択すること、処方の課題を理解すること、最終的な目的を認知することでもある。
調味料には、食習慣と食器同様、国家と民族の単位での同調圧力がある。塩、砂糖にも、偏りはあるがそれ以上に、伝統的なレシピでは、清酒、醤油、味醂の混用に問題が多く潜んである。よく知られた調味料の添加順は、味噌批判としても理解されるべきである。海外の類例はナツメグとメースであり、夏に怪しくなる製法に問題が見え隠れする。物理的には、その都度、勘を働かせて男性原理の正当性と矛盾を確認することが求められている。
醤油の背景は中国の油通しであり、絵画批判の力学的な限度が示されている。ヨーロッパでは、グレイビーソース等があり、インドでは、タンドリーとカレー以外にも、ピラティスともエクササイズとも異なるヨガがある。
日本は、スクラロースについては、黍糖を消費しない傾向が強くあり、店舗陳列品と消費方向でも相違が見られる。甜菜糖は双対の一種であるが、尊重と合理化が期待される。
酸と塩基については、硫酸、塩酸、硝酸以外にも、クエン酸、酢酸、乳酸の関与が広く知られている。塩基性の食品には、野菜、海藻、大豆製品、食品加工上最も顕著な危険性の表れだったダッチプロセスを含むチョコレートがある。
うま味調味料の成立の構造には、逆説に基くものがあり、そのことは破綻を意味する。源流はディアスポラと力学的な図式であり、象徴的には燔祭となる。『聖書』では、イナゴの大繁殖とイナゴ豆への言及がある。ヨーロッパではボーンブロスが発明された。日本では、うま味の発見は、椎茸、鰹、収斂味のある昆布によって正当化されたが、ヨーロッパではドライトマトである。文化圏を超えたそこまでの一貫性が無い。
応用技術としては、酵母の損壊プロセスに拍車を掛ける酵母エキスの問題以外にも、力学の図式に基く生産の合理性に由来する逼迫から、小麦や大豆を用いたたんぱく加水分解物の危険性がある。繰り返すが、生産量を増やすと力学的な図式の強度が低下する。
3-iii 原理
愛好の原理によって保障されるべき完全性を反省する必要がある。それは、懐疑論的姿勢と功利主義的姿勢によって否定された結果である。留意すべきは、本質を前提とする実体と客観性が前提となる実在の相違である。現代では、テフロンの失敗がある。そこには、一部の消費者を成就させれば良いという姿勢があった。コーティングが強くないと強いことがないことが原因の一端であり、消費者側の原因とは一旦区別するべきである。
製菓業に代表される自衛の策がある。懐柔作戦、調理の客観性(実在)は、食べる楽しさ以外にも、セグメンテーションと色彩と反射率への理解が必要であることを意味する。
調理の限界と料理には相関性がある。調理のメカニズムを無視すると諸悪の根源となるだろう。種苗における管理と育種、農耕における耕作と出荷若しくは自家消費、商業における生産と消費を念頭に置くと理解できるだろう。
本格冷凍は1回であり、大原則との基本的な一致を示す。日常生活には、本質としての偏差がある。料理の内実は、料理の存在と調理者の自由の原則であり、モナドロジーとの強い相関を示す。
農作物が必要な以上、天候と気候との戦いが現れる。巨視的な天象と、微視的な主観と人生には相違がある。その相違が、パリサイ派と人間実存の相違となる。
工業化はアングロサクソンによる適応規制としても知られ、日本の工業化を牽引したのはアングロサクソンであると言われている。以上だけを見ても、大陸規模での影響関係が有用性を示すことは自明である。
3-iv 同一性と差異性
食品デリバティブを検討すると生態系が視野に入らなければいけないことが理解できる。食材、加工者、調理器具等の広義の狭雑物はキャリーオーバーの視点以外にも、ロックの件の指摘同様、調理器具等は残りの環境的要因とは相違する。漂流物や漂着物とは相違する。この論点には、フィッシュアンドチップス以外にも、懐疑論的姿勢と功利主義的姿勢による既存の批判がある。
フランス芸術とフランス哲学が高い同一性を示すことは言うまでもないことである。ドゥルーズと自己知は、伝統的な哲学の研究活動である、人間の解明作業としての表情がある。その課題は多く、単なる全体主義の一部では、容易に情報の洪水と化してしまう。家事はその限りの意味で理解されるべきである。
市販品に不満を感じディップやソース、スプレッドのようなものを自作すると、その指標があることに気づくのか、既存の食材や加工食品との試食を試みるかのようなYoutubeの投稿が多く見つかる。昔は劇場アニメにその実例もあった。つまりそれは、ホワイトカラーのクリーニングのようなものに過ぎず、あらゆる職能にとっての有用性を示す指標であるとは到底言えない。その活動はビジネスに限らず、高階理論の一種に基く低効率な努力に堕している。
バターはギーにもなる。そして、フレッシュクリームはクロテッドクリームにできる。スイートコーンの次には、ポップコーンが生まれた。今やグリークヨーグルトもある。市場には、意味を為さない商品が多く見受けられる。それでも、多くの人はそのことを意に介さない。そのせいで多くの人が損をしていることに気付くべきだ。重商主義と重農主義の戦いの失敗はその辺りにあったと言える。
4 栽培実績
至上のローマ議会議長によって決定されたナシは、文明創世期の乾果域で最高権威であることが唱えられたカルティベートの一契機である。それは言わば、ブドウから出た果実である。百薬の長と言われるナシが、ブドウのような味がする幸水やカキの味がする南水を品種として持つことも、その証拠である。ナシを通底する原理には、少なくとも2種類のものがある。1つは、ブドウともテンサイとも共通のものであり、1つは、リンゴともスモモともモモとも共通のものである。
多くの梨園によって理解される通り、ナシは花木となる。それは他でもないナシが使役され逼迫することを嫌うからである。同じ意味で、水上の白い花弁よりも際立つ、その白い花の魅力を知らないことを口惜しく思う。曲がりネギのようになり、膿のような合成物を味の代替品にしてしまう商業栽培の多くは過誤となる。それは、当初の自然学が挫傷したこと同義であり、それが人間の自然との対話の本質である。市場の圧倒的大多数が、種苗と栽培を混同しているが、その相違は多い。栽培種の巨視的性質を関係者の性質と混同することは非常に愚かなことである。栽培種や植物に限らず、世界の表情は、更なる可能性を秘めている。刹那的な都合を押し付けることによって、人生は詰まらないものになってしまうのだから。
別の大陸では、街路樹の一種として、そして亦、道徳的な活動または慈愛の精神として、立脚を肯定し推進するムーブメントを盛り立てようとする活動がある。その本質が、図式上の原因が事実を認める日の到来を予言している。
気力と意欲と興味と愛好にポジティブな利権が内在した過去を我々は喜ばしく思わない。それは、アリストテレスが唱えた幸福が破綻する図式に基いた愚劣な試みに過ぎないことが共有可能な唯一の現実であることを、我々が認めるからである。以上は、散在的で緩慢な興味が愛好に転じる事が無いことからも、その正しさが理解できる。
農耕の目的と利害の相違から誤解と齟齬を生じることを避ける意味での参考として、以下に栽培実績を書き留めておく。当地から40Km程の距離にあるグレープフルーツの木は、その生産で最大級の実績を擁する政治主体との地方自治体の姉妹関係に因むもので、県内一有名である。
日本梨 大天理/大天梨 //総て、解放樹形を前例とし、梨が希求する棚を前提とする
二十世紀
新高梨
葡萄 ハニーシードレス//モハベゴールド系 濃色干葡萄用
コンコード //共にジベレリン無添加
林檎 単作グラニースミス
薔薇 ミセスジョンレイン
茶の木 於キャッスルトン茶園
馬鈴薯 アイリッシュコブラ
茄子 十全茄子/黒十全 //全て越冬が可能
米茄子//特質相殺用
水茄子//低磁性簡易浄水用 //蒸留も可能
中長茄子/千石一両
外郭系 瓢箪 糸瓜 朝顔(栽培種) 向日葵 秋葵 玉葱 葱 大蒜 野蒜 南瓜 茗荷
路地メロン トマト//熊本県との共同研究 コーン
ローズマリー サフラン 紫蘇 箒草
白詰草 酢漿 蒲公英(苦味料代替) 芥子 犬稗 苔類(クエン酸代替)/水苔、砂苔、他
野葡萄 芝桜 松葉菊 芝
日本米/ササニシキ、コシヒカリ //凡ゆるコンタミと移植後の微量の窒素肥料を除き無農薬
檜 楠 松 単層林//研究
山法師 柊 花蘇芳 南天 柘植 芙蓉 躑躅 青木
豊後、小梅 マルメロ 昭和初期の有核不完全甘柿と渋柿の接木 柘榴 暖地桜桃
他
なお、南瓜、茗荷、ローズマリー、サフラン、紫蘇、箒草、芝桜、松葉菊、芝、楠、青木、豊後並びに小梅、マルメロ、柿、柘榴については、他者の所有権を含む正当化と定植等を本体とする。
現在では、宗教世界の可動性が中世の行為論を示している。神の存在を重視し、世界を開拓した宗教の実績を、どのように理解するのかである。このご時世に教皇選挙の映画も卒なく理解させてしまうバチカン市国の、宗教的な包括性と能動性を現代では多くの人は享受できる。その他方で、ジャーゴンに比せられるイドラの権限に想いを馳せよう。パースペクティブを否定する、存在の原理が、世界宗教である当時の宗教の基調を意味している。
物質的な豊かさが精神的な貧しさを生み、地球を食い潰す時代が到来している。祆教ではガーサーによって示された内容が、随所に織り込まれた中世の写本は、依然として適正な着想を示している。その他方で、同時代人への情報提供はプラトンとは相違する現実的な表情を生理的かつ感覚的に湛えるに至っている。ニーチェが主張している通りの現実が既にある。つまり、清貧を貫ぬく為に生を受けた人はいない。エネルギー論と現代行為論の間隙を補填する必要がある。ライプニッツが唱えたモナドロジーは、虚無主義のことではない。人はウーシアによって導かれ、タブローに至る。ユニバーサル絵画の主体である西欧人のそのサイン作用は、クリシェではない。有限の存在が無限を理解し、存在の意味を知る。それが、中世の論理学の根幹である。中世哲学の泰斗ジルソン以上の、堅固な保守が中世の本体である。衰退する中世の研究を、正しく受け止める必要がある。
現存の資料に対する反省の意識が何を生み出し、何を破壊しないのかは、多くの人にとって必ずしも強い関心ではないだろう。その他方で、人類の余力は完全には失われてはいない。パトナムが唱えた双子地球は、現在でも深甚な影響力を有して止まない。真のアイデアとはその意味であって、残余として途絶した凡百の人々の創意工夫が、図案や絵画として捉えられ、アルファベットやタブローに昇華し、人間精神として維持運営される。その限りで、芸術家は意味を持つのである。
斎藤和也は、プラトンの「ティマスオス」に現れるプラトン定立の虚焦点を、見据えている。首都機能を期待されたアテナイの共同体に対する従属を意味するプラトンの躍進は、プラトンの挫傷と破綻を意味する。インドの知識に従属する事実を以てしても、地上に降誕した唯一無二の哲学者プラトンの存在理由を証明してみせたとは言えない。三項幻術の彼方に真理があった。ヘレネスを自認したプラトンの同一性の方法論に不備はない。全体に従属する単身であるプラトンは特称記述の埒外ではない。アーキビストの実在という特称的な課題を、現象学の彼方で自然学と生体の原理と共に迎えたプラトンがいたのだ。自動車の実例を見てみると、完全な剛体ではない。自動車は必要な柔軟性を発揮しなければ、公道を走行するに足る性質を満たしていないものとして処分されてしまう。全ての道具的存在者が、工業的発展の生成と消滅の渦中で、同一性を擦り減らしているのだ。加速度を例に取ってみても、写真機の着想は頭脳の暗箱であると言える。現代のデジタルカメラは、加速度を否定するかのようなデジタル画像を容易に調達してしまうのだから。四輪駆動が強いとは限らないように、プロダクションアイジーが手掛けた自動車の表現は、生体の活力とアニメ視聴者の消費のテンポを前提として展開している。同一の対象は存在しない。すべては有限の試みに過ぎない。人類に残された時間はまだ多い。神の存在に基く演繹法は不滅である。各種の存在者に対する偶有的な行為論の頽落形態の、時代的な表情には、終末理論は描写できない。
これが現在の絵画批判である。 ⸺ハレーを思え