いや~、
先日は、「土用の丑の日」でしたね。
友人家族と一緒にウナギを食べました。
今やすっかり高級食のウナギ。
割と手軽に食べられていた昔が懐かしいな。
ウナギといえば思い出すことがあります。
それは小学校の時の水泳大会。
たしか小学校4年生の時でした。
時々昔の話をブログですることがありますが、僕が小学生の時の事をけっこう覚えているのには理由があります。もしかしたら、同じ時代に同じ学校に通っていた子たちも僕に近い感覚かもしれません。
それは、在学中に校舎を建て替えたから。
これ、結構大きい出来事です。
僕が小学校1年生~3年生までは旧の古い校舎。4年生と5年生の時は新しい学校を建築中だったから、その期間は別の場所にある中学校の一部を間借りしていました。5年生の3学期に新しい校舎が完成。
本来は新学期から校舎に移れば良いものを「それでは今の6年生が可哀そう(新しい校舎で学ぶ機会がなかった)」という、分かるような分からないような理由で3月のちょい前に新校舎に引越し。6年生は1か月だけ新校舎に行くことが出来たんですね。(誰も喜んでいなかったけど)
僕は5年生の時の3月なので、1か月だけ5年の教室。1か月後にすぐ6年の教室にまた引越し。ほぼ生徒全員が不満を漏らしていました。(6年生もだけど)
そんなに新校舎に行きたい!なんて強い願望があったわけではないし、新校舎に移っての数か月は「汚すな」「傷めるな」「はしゃぐな」「廊下を走るな」(廊下は旧校舎でも走るなでしたけど)を常に先生達から言われて、何かあると、すぐ「掃除しろ」「床掃除」「掃き掃除」「草むしり」とにかく新しい校舎を「超大事に扱え」という空気が凄かったんです。
子供ながらに理解はしていましたが、それでもやりすぎやろう、と。いったい誰のための学校なんだ!子供は遊んではしゃぐ事も大事なんではないか!といった不満が募り、6年生はただ地獄のような修行のような1か月を過ごしただけで、それまで臨時でも通っていた中学校に行くことになりました。余計に新校舎に良い思い出はないはず、僕の一つ上。お可哀そうに。僕なら全力で反対したはずだ。本当か?
そんな新校舎も随分前に廃校になっちゃってます。年1の盆踊りとかのイベントでしか使われないような勿体ない施設だったんですが、今は松山市にあったドイツ料理のお店が開業準備しているとかしていないとか?
そういえば、さっき少し話した中学校にあった学生寮の跡地には、数年前から「ベトナム料理」のお店が出来てんのよ。
で、今度は「ドイツ」?
え、なに?次は「オランダ」?
(それドイツんだ?オラんだ!って知らない?)
いや、良いのよ、良いのよ。
もともと愛媛新聞に「陸の孤島」って書かれるような場所だったしさ。(雨が降ると国道のどこかに土砂崩れが起きて道がよく閉鎖されてたのよ)
僕は高校3年の時バス通学だったんだけど、3年の時だけはなぜか「無遅刻」「無欠席」に凄く拘ってて頑張ったんだけど、途中にこの「陸の孤島状態」が起きちゃってさ。先生には「遅刻の言い訳するな!」とか「もうちょっとましな嘘をつけよ」とか「日本にそんな場所があるわけないやろ!」(えらい失礼やな)とか、もうどんだけ僕の信頼がないか分からんくらい言われたけど、意地でそれを証明してさ。結局「無遅刻無欠席には響かんようにはするけど、いったいお前はどんなとこ住んどんのや?」って凄い馬鹿にされた事は今も忘れない。
ご、ごほん!
(話題を元に戻す咳払い)
いや、そんな田舎自慢をしたいわけではなくてさ、
てか、なんの話をしてったっけ?
あ、新校舎が歓迎されなかったの話、、、
ではなく、小学校の時の水泳大会の話やった。それも僕が小学4年生の時の。なぜそんな何年生か!ってまで覚えているのが、その時々の通った校舎が「旧校舎」「仮住まいの中学校の校舎」「新校舎」って場所がハッキリ分かれてたからが大きいって話でしたね。
特に中学校を間借りしてた時なんてさ、体も大きい「中学生」の先輩方に散々可愛がられて(イジメられて?)辛い思い出がいっぱいある。特に女子の先輩には随分と可愛がられたから、僕の女性嫌いは「母親」と「中学生だった先輩」に相当影響を受けてきたとつくづく思う。「中学生だった(女子の)先輩」なんてイジメている意識なんてないから余計に質が悪い。可愛がっているの押し売り。体も大きいし。てか、こっちが小さいし。
いやいや、ま、そんな話はとりあえずいいや。
(トラウマ過ぎて咳払いにもならない)
ま~しかしね、中学校って、普通、中学生を基準に全てを設計してんじゃん。校舎もそうだし、運動場もそうだし、そしてプールも。このプールが特に厄介だったよね。
もうね、簡単に言うと「深さ」が違ごう。
(公家言葉)
中学校のプールは小学校のプールよりも「深い」。もうね、これに尽きる。僕が小学校を建て替えるために中学校を間借りしてた期間でとにかく嫌だったのは、この「深い」プールと、「中学生だった(女子の)先輩」
あ、女子の話はまぁいいや。
水泳の授業はとにかく嫌だった。
まったく泳げないわけではなかったけど、25メートルは泳げない。10メートルか半分くらいならなんとかなるんだけどプールって真ん中に行けば行くほど深くなんじゃん!それを超えたらまたちょっとずつ浅くなるけど、あの真ん中が深くなる感覚(あの中央の深い所って、小学4年生くらいなら足が付かないんだよね)がとにかく怖くて、最初は25メートルの向こう岸のゴールを目指すんだけど、真ん中に近くなると恐くなってきて、手前のスタート地点や、プールの端の方に泳ぐ方向変えて向かうようになっちゃうのよ。それが分かっているから、先生も、本来ならコースごとに設置してあるコースロープを最初から外してあるの。泳げない奴はそれにすぐにしがみ付いちゃうからね。
ま、でも当時はスパルタというか、時代というか、とにかく泳げない奴も強制的に泳げるようにするのが授業だったから、泳げない奴は先生のターゲットにされるわけよ。それは、小学校の低学年生でも女の子でも関係ないわけ。プールに放り込まれて泳げるまで泳がされる。僕とかがプールの端の方に泳いで逃げようとしようもんなら、先生がプールの端のその先の方の陸地で待ち構えていて、それこそ、プールの端に捕まりそうになった瞬間に足蹴りにされるような事は茶飯事。なんとか陸に上がってもプールに投げ飛ばされたり、中央付近まで抱きかかえられて連れ戻され、またそれを繰り返すような日々が続いていた。
あれはとにかく地獄だったな。
本当に泳げなくて、沈みそうになったり、水を飲み過ぎて吐いたりしたら助けられるわけさ。ま、時代だよね。だから泳げない奴らは、強制的に泳げるようになるか、限界です”の演技が上達するか(沈む振りしたり、足吊ったふりしたり、パニックを起こしたような演技をする小学生が激増)のどっちかだったよね。僕がどっちだったかは想像にお任せしますけど。
そうしたら、プールから逃げだす。っていう、僕でも思いつかないようなとんでもない凄い飛び道具(?)を使う低学年の猛者も出てきてさ。それが分かったから、僕なんかは途中から、プールから逃げ出す低学年を追い掛ける役割に回っていたもんね。
もうね、生きるか死ぬかぐらいまで追い込まれているから(昔の話だからそれを考慮して読んでね)小学生でも強制的にたくましくなっていくよね。低学年生の普段大人しい女の子が、あえて溺れさせる大人の先生に対して泣き叫びながら「お前、〇〇してやる!」(さすがに言葉が強すぎて伏せますが)って発した時は、さすがの僕もたじろんだもんね。(てか、その先生も少し引いてたけど)
ま、だから、僕は、プールから逃げ出す子達を捕まえるハンターの役割を勝手に担って(自分もドサクサに紛れてその場を逃げられるから)なんとかやり過ごしてたんだけどね。
あれよ、仮にハンターして逃げた子を捕まえても、無理やりにプールに連れて帰うような事はしないんです。一応捕まえた事にして、時間を見ながらちょうど良い時間にプールに連れて帰って時間切れにする訳です。そんで、端っこの方で、泳げる範囲で泳いでみようってするわけ。中には、水に顔を付ける事が恐い!なんて子もたくさんいたの。(小学生やからね。それが、いきなり、中学生の深いプールに入るんだからね。僕からしたら恐くない方がおかしいくらい)そうやって少しずつ慣れて行こうってしたりしてたの。
ま、そんな僕も、全く泳げない訳ではなかった。なんとか25メートルプールの向こう側まで泳げるようにはなった。真ん中まで泳げば、端に行くのも、ゴールの向こう岸に行くのもほとんど同じだって事が分かったから。
でも、泳げるけど速くはなかった。それが次の嫌な事になった。
ね~、
複式学級って言葉知ってる?
(また話の展開が突然やな)
生徒の少ない学校は先生も人数が限られるから、僕達の通う小学校は「3年生」と「4年生」は複式学級になっていた。これは2つの学年が同じ教室で同じ先生から同時に授業を習うわけ。その年代なら似たようなもんでしょ!って事なのかな。
でも、同時っつっても、机の向きは反対向いているの。教室をだいたい真ん中で半分に分けて、3年生があっちむいているなら、4年生は反対の方向に机を向けているってこと。両端に黒板があって、先生は、それを交互に使って教えるわけ。今で言ったら大谷翔平選手のようなもので、、、。
習う事は違うけど、クラスと言うか教室は一緒で、担任の先生も一緒で、遊ぶのも一緒だったりする訳。4年生はいいけど、3年生はちょっと嫌だよね。小学生のクセに先輩後輩みたいな力関係みたいなのが自然と出来ちゃう。女子なら尚更ね。
小学生の頃は、体格は女子の方が良いから、僕なんかは4年生でも当時は1コ下の女子に結構負けてて、それこそ、可愛がられて(イジメられて?)いたっけな。特に当時は「光GENJI」がとにかく流行ってたから、休み時間や放課後なんかは女子に捕まって「ローラースケート」や「一輪車」の練習無理やりさせられたな。「男の子は一輪車位乗れんといかんのよ」なんて言われて謎の特訓させられたな、僕だけ。今考えたらそれは好かれてた事の表れなんだけど当時は辛かったな。逃げ出したい気持ちでずっといたな。
ま、その話はいいんだけど、
(トラウマ過ぎて咳払いにもならない)
その1コ下の女子に水泳大会で勝てない事がとにかく嫌で嫌で。泳げないから、少しは泳げるようになったまでは良いんだけど、その次の苦行が「女子に」しかも「年下の」子にボコボコに負けて、しかも、その子から泳ぎ方を教えられて「男の子だから私よりも速く泳げないとおかしい」みたいに言われるのがとにかく嫌で。
それで、その頃の「水泳大会」が嫌だったんです。
田舎の学校だから、生徒数が少ないから、全員がなにかの競技には必ず参加するんです。水泳が得意とか苦手とか泳げないとか関係なく。(今日初めての倒置法)
僕の競技は25メートル自由形。隣のレーンには、いろいろ泳ぎを教えてくれる1コ下の女の子。その子にボコボコに負けるのも、泳ぎ方を教わるのも、なんなら、泳ぐのが遅い子に対して掛けられる周りからの大声援も。人によってはそれが嬉しい人もいるだろうけど、僕はそれが辛かったな。
特に水泳って息継ぎの度に声援が聞えてくるから、あの途切れ途切れに聞こえてくる声が泳いでいる方からすると声援に聞こえないんだよね。(なんだか泳ぐのが遅い事を笑われているような錯覚に陥っちゃうというか)
だから、水泳大会が嫌だった。特に小学4年生の時の。
(倒置法)
僕は、その1コ下の女の子に勝てるような努力をすれば良かったんだろうけど、相変わらず、足吊ったフリや、逃げ出す子をいち早く捕まえるハンターをしたり、また、水泳大会が流れるように雨乞いをしたり(?)そんな日々を送っていました。
そんな水泳大会の当日。
僕はいつもよりかなり早く目覚めました。
雨乞いが効いたのか、窓の外は小雨日和。僕は少しガッツポーズ。水泳大会の開催要項を確認したら「雨天順延」って書かれてある。もう少し雨が降ったら、「水泳大会」は延期。うまくいけば大会自体がなくなるかもしれない。
布団の中でうずうずしながら、7時過ぎくらいになって学校に電話してみた。匿名で「今日の水泳大会は中止ですよね?」
電話に出た先生は「は?このくらいの雨で中止はあり得ません。ところで君は誰かな、、、そういえばさっきも似たような電話があったな、、、確か、おお、、、(ガチャ)」
「え?大野、もしかして弟が先に掛けてた?」
(今でも謎ですが)
結局、水泳大会は決行との事で、ガックリとしながら支度をする訳です。家を出る前に父親から弁当が入った袋を渡されました。「父ちゃんも母ちゃんも仕事やし見には行けんがまぁ頑張ってこいや!」みたいな事を言われました。見に来なくて良いと思ってました。1コ下の女の子にボコボコにされる姿なんかとても両親には見せられない。かといってどんだけ頑張っても勝てない事も分かっている。
僕は、力なく学校に行き、午後に出番のある「25メートル自由形」を、それでもなんとか回避できるような術はないかを、午前中はずっと泳いでいる奴らの応援しながら考えていました。
お昼休憩になってご飯の時間。
いつもの遠足とかなら友達同士で集まってワイワイやるのに、その日だけはとてもそんな気分になれなくて、みんなが弁当を食べる体育館には行ったものの、誰も来ないであろう小さな倉庫の端っこに隠れて一人でお昼にしようとしました。
そこで、朝に受け取った弁当の袋から中身を取り出そうとして初めて気付いたのが、弁当箱ではなくて、まさかの丼。
え?これって、ウナギとか食べる時に使う特別な丼やん!ってとても驚きました。袋から取り出した丼はまさに「ウナギ丼」の佇まい。蓋を開けたら、香ばしく照りのついたそれはそれは美味しそうなウナギが2枚乗ったウナギ丼だったんです。
(ここでやっと話にウナギが登場)
その時に「父ちゃんも母ちゃんも仕事やし見には行けんがまぁ頑張ってこいや!」って行きがけに掛けられた言葉がフラッシュバックして蘇りました。泳ぐのが遅かろうが1コ下の女の子にボコボコにされようが、情けなかろうがなんだろうが、お前がお前のベストを尽くせばそれでええやないかい」そんな優しいメッセージをそのウナギ丼から受け取りました。
しかも二枚。
大野家には、ウナギを食べる時のルールがあって。
ウナギを食べたかったら「頭」か「骨」を先に食べなければいけないってやつ。ウナギの頭には小骨がいっぱいあるし、骨は固いし味がしないし喉につまりそうで怖いし。でもそれを食べなければ美味しいウナギの身の部分は食べさせてもらえないっていう我が家ルール。
それが、そのはずが、その日の「水泳大会」の時の弁当の「ウナギ丼」には美味しい身の部分だけ二枚入ってて、どこにも「頭」も「骨」が見当たらない。
もう、僕は、ただただ情けない気持ちになって泣きながらそのウナギ丼をかき込みました。水泳大会の中止を願ったり逃げようとする事しか考えて無くて、それなのに親からはこんな形でエールをもらう事になって、自分はなんと情けない人間なんだと。なのにそういう気持ちで食べてる「ウナギ丼」はとてつもなく美味しい。どんどん力が漲って来るのが分かる。
よ~し、やってやるぞ!と。
食べ終わった僕は、その体育館のどこかにいるであろう弟を探しました。そしたら、多分だけど弟も僕を探していました。やっと見つけて「ウナギ丼」の事を言おうとしたら、先に弟から「兄ちゃん、ウナギ、、、」と言われそうになり「何も言うな。午後から頑張ろうな!」的な事を言ったような、言ってないような、、、。
そして、
朝、お前も学校に電話したんか?
(余計な話しを)
僕の出番だった「25メートル自由形」いつもよりも大きな声援が、その時だけは嬉しかった記憶があります。スタート前に隣のレーンにいた1コ下の女の子に何か話しかけられたような気がします。「今日はいつもの僕じゃない。覚悟しとけよ」的な事を言ったような、言ってないような気がしながらスタート。けっこう良い勝負になり、僕ももしかしたら勝てるかもなんて思いながら泳ぎ進めて、でも僅差で負けてしまいました。
負けてはしまったけど、悔しさとか情けなさとか恥ずかしさのような感情は一切なくて、そうさね、サッカーの本田圭佑選手ではないけど「清々しい(きよきよしい)」くらいの感覚だったな。初めて味わう感覚だった。自分の出せるベストを出したというそういう開き直りのような気持ちだったな。
ゴールした時、少し先にゴールしたその1コ下の女の子が言った「やるじゃん!途中負けるかと思ったよ。ま、私が勝ったけど」っていう皮肉にも
「そうか・・・まぁ見とれや」みたいな男前で余裕な言葉を返したよう、返さなかったような。そんな気がして、「ウナギ丼」の前で、僕は自分がその時に出来る恥ずべきない行動をした満足な気持ちでいた事を思い出します。
家に帰って親にお礼を言ったら、別に結果を聞くこともなく
「頑張ったか!」と聞かれ
「父ちゃんのウナギのおかげで頑張れたわ!」
と報告したんでしたっけね。
ウナギには、そんな思い出があります。
頑張らなきゃいけない
やる時はやらんといかん
自分に嘘はついちゃいけない
どんな結果が出ようと堂々と胸を張れ。
あと、水泳大会は雨降っても結構やるよ。
ウナギの思い出の話でした。
今日は真面目か!
(何じゃそりゃ!)
いいね!フォロー!よろしくお願いします。
こちらのブログも見てね
「不動産あるある」を宅建の試験問題形式にしてみたらって話。
賃貸でも持ち家でも「俺の部屋」ってそもそも言える?って話。
「ドラえもんしよう!」は果たしてどこまで通用するのだろう
賃貸物件に住んでる人が引越しを考えた時の解約通知のタイミングは?
契約日、申込日、入居日、家賃発生日などそれぞれの意味について