案の定、トランプさんはプーチンさんに最大限利用されただけ。ポーン

二次関税200%を口にしてたが、対ロ制裁をひっこめさせただけでもプーチンさん側にとっては今回の会談大成功。プーチンの準備した餌(開発投資)に食いつかされ、まえまえから口にしていた対ロシア制裁強化どころか、自らロシア側に会談の予約だから、結局まるめこまれたトランプさんの負け

トランプさん側(with ウィトコフ&ルビオ)よりロシア側は優秀だし、役者が2,3枚上だった。
これまで以上にロシアは猛攻に出るだろうし、ウクライナの苦痛と苦悩はさらに延長された
真顔

姶良市蒲生町の土砂崩れ現場はこちら
ここは蒲生・花の森祭りの行われているところだ。
こちらは火山灰台地端のような気もするが、ところによっては土砂の中に巨岩が混じっていることがあるので、怖い。お墓を調べているとは山裾を削って宅地造成をしたのか時々土砂崩れで死亡したことが刻された墓石にも出会う。水がちょろちょろ流れているか否かという程度のちょっとした谷筋が時間降水量が100ミリ程度の大雨に見舞われると、それを抉(えぐ)るような感じで土砂崩れが起きたりするから直下の家屋は悲惨だ。ここでは竹藪が崩落したようだが、二階建倉庫と母屋だが、金曜日早朝の被災だったとは・・・。
長女の方が亡くなられたようだ。合掌!汗うさぎ



天別豊姫(あまわけとよひめ)神社(菅茶山はこの海の神は穴の海と関係があると・・・菅茶山の「穴海経」の聖地、広島県福山市神辺町大字川北142-2・・・菅茶山らが制作した嘘情報:天別豊姫神社)、茶山は地元では饅頭(旧廉塾の西隣に慶応元年創業の「茶山饅頭本舗」)の名前になるくらいの有名人で、同時に地元神道家の役目も担っていた。(隣家の高橋家は北条悔堂の子孫)お陰でいろんな僻説を地元に振り撒いてきた。小丘・碇山(いかりやま)を中国華南の大山名から借りて「猫児山(ねこじやま/ねこやま?・・びょうじさん)」とするなどこういう趣味は「遺芳湾」の命名だけではなかった。{/face_cry/}


下の写真は碇山(いかりやま)観音・皇子神社@王子山、菅茶山の漢詩の中では「猫児(ねこじ)山」。風化花崗岩の小丘。井上という苗字が目立った。川南地区。イカリ山山麓の民家(1.5~2.0㍍ほど水田面より高く浸水被害を受けない)


菅茶山の「廉塾」跡。茶山屋敷前の山陽道筋。現在家屋の工事中。楠木の巨樹の背後は高屋川堤防(高屋川堤防側から見た工事中の旧廉塾)。


網付谷(新市の「網引(あびき)」と酷似・・・いずれも菅茶山発の「穴海」言説の中で引き合いに出されていた、菅茶山特有の創作神話,例えば天別豊姫神社の社伝(当該神社の前身を網付谷筋の高台にあったという「磯神社」)と紐付け譚)にある菅茶山一家の墓地(ちょっと荒廃感‥県史跡なのでうっかり手が出せないか・・・北条霞亭夫人・敬の墓、土葬のため墓石は大きく傾く)、建屋の中に置かれているために明治13年没の人の墓石(シンさん、菅普賢夫人)がピカピカで驚いた。すっかり紅葉。茶山の墓誌は頼杏坪撰文。埋葬形式は頼春水墓と同じ
儒者墓についての研究論文:吾妻重二「日本における『家礼』式儒墓について : 東アジア文化交渉の視点から(一)」、関西大学東西学術研究所紀要 53 3-39, 2020-04-01、関西大学東西学術研究所→「儒葬とは朱子の『家礼』に基づいた葬礼」:大塚先儒墓所

 菅茶山一家の墓地の下の段には土塀で囲まれた立派な裁判官菅波鶴雄家墓地(1957年)。落ち葉で埋め尽くされていた。
松浦さんの庭先に茶山の漢詩碑「五月の農事はたいへん忙しい。大麦を収穫したかと思うとすぐに田植えが始まる。一夜園林を雨が洗うと、猫児山のまわりの田は水を張り空を写している。」 元藤沼では菅茶山の時代には二毛作してたようだ。特段水防対策など住居にも田畑にも見かけなかった。菅茶山屋敷の前庭の一角にある湧水池も時々水が枯れるらしい。菅茶山は元藤沼の梅雨時の大雨で海のようになると書いていたが、これは宮原直倁同様の指摘で、当時は今日とは事情が異なっていたのか{/face2_grin_s/}。
千田村辺りは芦田川の増水時には冠水したようだが、宮原直倁によるとここは丈の低い越流堤が建造されており明らかに福山城下を洪水から守るために遊水地として機能させられた場所だった。そういう類のことを藩主水野氏時代以後の藩は色々と治水工事の中で行っていたはずだ(普請関係の史料で要確認)。


菅茶山 農功

農功五月急如弦  農功 五月 弦よりも急に
牟麦纔収已挿田  牟麦(ぼうばく) 纔かに収めて 已に田に挿す
一夜園林濯枝雨  一夜 園林 枝を濯ぐの雨
猫児山下水涵天  猫児山下 水 天を涵(ひた)す

農家の仕事は五月になるときりきり舞の忙しさで、大麦の刈り入れがやっと終わると、忽ち田植えが始まる。
一晩、庭の木々の枝を洗う雨が降った後、猫山の麓の水田には水が漫々と湛えられ、青空が水面に映っている。
典型的な茶山の田園詩といわれているものだが、天明の飢饉頃の作だ。これが所収された漢詩集『黄葉夕陽村舎詩』前編2には雑詩として水害・冷害・飢饉を詠んだしものがあるので、詩の解釈が難しい。「水 天を涵す」は単なる田植え後の水田に一時的な降雨によって水が張られた状態なのか。「備中途上記路人談三首(2)、天明4」のように同じ表現で洪水(水害)→農民一揆の伏線を連想させる含意をのものであったのか。(小財陽平『菅茶山とその時代』、60-61頁)


説明員さんから頂いたパンフレット表側//裏側
神辺本陣跡(旧廉塾から500m西)


6㌔徒歩。3時間。電車での往復に3時間。
本陣の立地する旧山陽道の街並みはこんな感じ。旧山陽道の200m北側には高屋川。

この辺りの山陽道は高屋川沿いにあるため時折冠水したのか道路面より2尺ほど宅地を嵩上げした民家も散見されたが、ここではこういう方がむしろ例外的。
神辺小学校・中国銀行神辺支店近くの旧山陽道沿いの旧家の嵩上げ状態(土蔵の石垣高115㌢)
本日のフィールドワークの目的はこちら背後の山が片山(いわゆる片山病\日本住血吸虫病の片山)、手前の叢林が碇(菅茶山命名の猫児山)山/猫児山/王子山を訪れる事だった。かつて菅茶山が主張した「穴海」のあった一帯だ。

菅茶山が指摘の元藤沼(上図中のWet land部分)は福山城下を洪水から守る遊水地としての機能を果たした。藤井好直『片山記』1847は片山一帯の低湿地で増殖した淡水性巻き貝起因の風土病(片山病)をルポしたもの。彼の云う「海」は穴の海を念頭においたものだが、ただしくは一帯に形成されていた湧水池(低湿地)に片山貝が繁殖。
高屋川左岸堤防沿いを歩きながら見つけた巨木(早田荒神の椋木)とひときわ目立つ蛇円山、山頂付近の雨乞い用の高龗社立地
水害対策例

元藤沼と呼ばれた菅茶山主張の古代「穴の海」の一帯には身を守るための建築構造物類
水屋・水塚(木曽三川、庄内川、荒川、利根川)
段蔵(淀川)
城構えの家(吉野川)
石囲いの家(吉野川)
畳堤(揖保川)
助命壇(木曽三川)
舟形屋敷(大井川)
サブタ(大野川)
助磊(江の川)
一文上がり(斐伊川)
の類はなし。
知床半島の斜里町と 羅臼らうす 町にまたがる羅臼岳山中でヒグマ親子の餌になった東京都墨田区、会社員曽田圭亮さん(26)。
催涙スプレー持参の登山だったようだが、まさかの結末にただただ合掌!
害獣などの野生動物は、法律上「持ち主が不在の物」として扱われ、ために害獣による被害は「物損事故」「単独事故」などとして処理されるようだ。 ただ任意保険の場合は、 「対物賠償保険」 に加入していることで(人体の?)修理費用として保険金を受け取れる可能性ありなのだと(AIの回答)。

佐藤さんをよく知る人物の証言です。(全文引用
 「仕事に行くときにクマを目撃して怖いという話を3回ぐらい聞いた。目をつけられていたのか」(亡くなった佐藤さんを知る人)
 佐藤さんは襲われる4日ほど前から頻繁にクマと遭遇し、身の危険を感じていたというのです。
現場には引きずられたような跡も
 さらに。
 「事件の前日、母親に『ナイフ持って行った方がいいかな?』と話したらしい。すごく神経質できちんとしている人だから、クマが怖いというのと、新聞を配達しなければいけないという思いがあったようだ」(亡くなった佐藤さんを知る人)
母親は胸の内を語った
 恐怖を感じながら、強い責任感で新聞配達を続けた佐藤さん(率直に云えば危険を感じながらもあえて有効な対策をこうじなかった佐藤さん側の不作為が痛い、合掌!)。泣き笑い


古河古松軒の記述した江戸後期の山犬・熊被害
福島辺りでは山犬は農作物に被害をもたらす鹿を捕食するので、オイヌ様といって慇懃に挨拶する対象だったようだ。牧馬(牧)の盛んであった関係で、陸奥(現在の福島県)地方では放牧馬を捕食するツキノワグマがいてこういう熊は人を襲っていたらしい。ここでは仔馬は山犬が捕食していたのだと。蝦夷地にはヒグマ被害に遭った人のお墓が通路のあちこちに立っていたと古松軒は記述していた。

人が受ける熊による傷跡
アルゲリチ以来のショパンコンクール優勝者・・やはり楽曲構成の佇まいが美しい。スター
Yulianna Avdeeva - Chopin - 3 Mazurkas Op. 59

2010年のショッパンコンクール時の「Yulianna Avdeeva – Sonata in B flat minor, Op. 35 (third stage, 2010)
Yulianna Avdeeva - Chopin

2010ショパンコンクールでの協奏曲第一番、非常にすばらしい!
Yulianna Avdeeva – Concerto in E minor, Op. 11 (final stage, 2010)
中国出身の人気天才ピアニスト:ユジャ・ワンさんとの比較(とにかく奔放、これみよがしな曲芸師的でスリリングな演奏で聴衆を屈服せるような演奏をする、往年の名リスト弾きシフラ Christian Georges Cziffra,に引き付けて言えば女シフラ)。
NHK+で一度視聴。それで十分!
クラシック音楽館 N響 第2039回定期公演
7/20(日) 午後9:00-午後11:00
配信期限 :7/27(日) 午後11:00 まで


ショパンコンクールの覇者アヴデーエワがロシア・ピアニズムの真骨頂を披露。さらにチャイコフスキー最後の交響曲では名匠メナが、辞世の響きを紡ぐ。【曲目】リムスキー・コルサコフ/歌劇「5月の夜」序曲▽ラフマニノフ/パガニーニの主題による狂詩曲スター▽チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」【演奏】指揮=フアンホ・メナ、ピアノ=ユリアンナ・アヴデーエワ、管弦楽=NHK交響楽団【収録】2025年6月7日NHKホール



2022-12-24 11:03:32

国会図書館デジタルコレクションが新装されてかなり使い勝手が良くなった。
いろいろ「渡辺修二郎(明治20年官報では渡辺修次郎)」のテクスト類が見つかる。各家庭のPCから自由に閲覧可能なテクスト数が863、中央図書館に出向いて閲覧可能なもの1149,国会図書館に複写請求が必要なもの539,Σ2551点に達するものがこちらに所蔵されているようだ。この人については誠之館人物誌には未掲載で(、阿部家家司として明治期の旧藩主家支えた人物の伝記『岡田吉顕之伝』にも未寄稿、ただし山岡八十郎次之に関する渡辺『阿部正弘事蹟』二の記事を本書12頁に転載、思想は佐幕派「江湖」新聞系)、私自身も後述する丸山真男『福澤諭吉の哲学』の中でほんの一週間前に知った次第。渡辺修二郎は官立東京英語学校(東京大学の前身)及び築地にあった外国人経営の立教学校(現在の立教大学)出身者(妹尾 啓司「備後国福山藩の英学」、日本英学史研究会研究報告/1967 巻 (1967) 74 号が簡単に紹介程度)で、外相陸奥宗光、英国公使アーネスト・サトウとも懇意だったということで人物評伝以外にも外交史関係とか日欧文化交流史関係の書籍類を数多く残していた。
渡辺が最晩年に上梓した好著『近世叢談』(の奥書、緒言の日付は昭和18年12月、本文中の記事投稿日付に昭和18年ものあり)に彼の消息の一端が記述されている。安政2(1855)年生まれで、かりに昭和19年まで健在だったとすれば89歳ということになるが,歴史家の間では江戸から明治・大正、昭和を生きた近現代史の生き証人のように例えられた貴重な存在だっだそうで、代表作は『阿部正弘事蹟』明治43(1978年に 続日本史籍協会叢書の中の上下2冊本の形で東京大学出版より復刻)年だ。
「寸鐵」(ユーモア交えたり交えなかったりするが、要するに極めつきの文芸的な辛口(=用例「寸鐵殺人的ノ短評」)あるいはその類いの批評もののこと)に関しては高橋淡水の著作物の中に「寸鐵録」というのがあっていろいろ、調べてみて明治・大正期には一つの文学的書法として存在していたかなりポピュラーな存在のものであることは理解していたが、このジャンルの極めつけ作品群を(顰蹙を買いながらも)後述するように渡辺修二郎がたくさん執筆していたのだ。
そこで・・・・
寸鐵-国会図書館デジタルコレクション
例えば半仙子(半分仙人気分の北沢良助)『寸鐵』,明治22。これらの小話集。例えば勝海舟は寸鉄鋭いアフォリズムや皮肉をこめて「さぞ本望菊と葵の共栄え」と詠われている。作品としては今一歩といったところだが、勝海舟に対しては福澤諭吉が『痩我慢の説』に記した内容(徳川幕府の幹部[若年寄格]
として戦った相手である現政府に現在大いに参加協力をしているが、あなたには三河武士としての誇りはないのかといった問いかけをした)とは負けず劣らずの皮肉っぽさである。
韓国にも一年の世相を四字熟語(例えば「君舟民水」)で風刺する遊戯を楽しむ風習があるらしい。「君舟民水」とは「民は水、国王は船。川の水は船を浮かせているが腹を立てれば転覆させることもできる」という意味らしい。清水寺が年末近くになって行う今年を漢字一文字で表すって奴も、辛口さは少なめだが風刺する遊戯の一種と言えようか。
このような書法の作品が当時、英国でも流行していたようで、そういうこともあって陸奥宗光は明治24、5年頃、第一次松方内閣時代に薩摩派と衝突して閣外へ去り,直ちに後藤象二郎や大江卓、岡崎邦輔の協力を得て日刊新聞『寸鉄』を発刊し、ここを舞台に盛んに松方内閣批判を展開。
この書法としての寸鐵を常用した作家の一人に1855年に福山藩(江戸詰藩士渡辺三太平の息子)に生まれた著述家渡辺修二郎(修次郎)がいて、その作品として例えば『評伝井上馨』(、明治30年、同文館発行//忠国伐閥の立場から辛辣に批判、てか、ほぼ誹謗中傷本)があったのだ。日比嘉高氏(現在名古屋大学)が2000年に筑波大学に提出した学位論文:『<自己表象>誕生の文化史的研究』本編一七ページ目に新声社(新潮社の前身:編集者佐藤儀助、発行所東京市牛込区左内坂町二十八番地、明治29年に雑誌「新声」を創刊)刊『新声』第二巻第二号(明甲2)の「文壇の消息」からの引用した「◎評伝の流行・・・例の民友社如何でか黙し居る可き、渡辺修二郎氏を傭うて「人物評伝」を発行し、其他百頁内外の小冊子出ること頻々たり。尚ほ他に同文館よりも同種のもの出づ」という下りのあることを発見し、もっかこちらの方面の情報収集を始めたところだ。この程度の断片的情報はいろいろかき集められそうだが・・・・。
ところで、丸山真男『福澤諭吉の哲学』に登場する渡辺(ペンネームで焉用氏/えんようし)の『学商福澤諭吉でも福澤を「拝金主義の宣教師」と決めつけ、皮肉を込めてこの人は学問を商売する「学商」だと評定していた。
日本の知性を代表した丸山真男はその辺は角が立たないように渡辺の真意は「(福澤)氏の時代は既に去れり。今に置いてこれを咎むるは抑も酷なり。予等唯後進の為に一言加ふるのみ」という部分にあるのだと少し、渡辺に助け船を出している。
私などは儒者貧乏が普通だった江戸時代の漢学者たちのケースを念頭に私学経営者いやそれ以上に日本国の近代化に大きく貢献する人材育成者として大成功しつつあった(、西洋文明に触発された)福澤諭吉の新しい生き方を渡辺はよく理解出来なかったのだろうという気がしてならない。

渡辺修二郎の登場する博士論文・・・15件。参考までに高橋淡水の場合は2件。そのうち筑波大学のもの(西邑,雅未「筑波山における風景の変容」2018)は審査結果の公表だけで、本文非公開。李さんの「東海散士「佳人之奇遇」とその時代 : 歴史と文学の接点をもとめて」神戸大学(学術博士)、2010は閲覧は出来ないが、目次のみ限定公開されている。

【メモ】福沢諭吉の場当たり主義・得手勝手さ
痩我慢の説」(明治24年脱稿、1901年/明治34年1月1日の『時事新報』紙上に掲載)では三河武士の風上にも置けぬ奴だという形で勝海舟を批判。明治6-8年頃に書かれた『学問ノススメ』では赤穂不義士論(仇討ちを蛮族陋習と批判)・楠公権助論(後醍醐天皇に対する忠誠心が旺盛であった楠木正成の自殺は権助=下男の自殺同様、徒死だと非難。こういう形で頼山陽らが称揚した儒教的な名分論のばかばかしさを笑う)。明らかに三河武士のプライドと君主を殺められた臣下たちのプライドといった武士道の精神の中核部分を巡る福沢の考え方は自分の都合によって得手勝手に使い分けられるという面では一貫性がない。こういう矛盾点に関しては丸山眞男(松沢弘陽編『福澤諭吉の哲学』岩波文庫、2008)も指摘しているが、丸山の場合はそういう面を印象としては人間福沢諭吉という縛りの中で許容している。わたし?丸山の立場が度量があって正しいと思う。わたしなどは冒頭に紹介した「痩せ我慢説」などは生活に困窮する失業士族(とくに旧幕臣)たちの我慢の限界を超えた現状打開を考えさせる福沢諭吉からの一種の陳情書として読む。

【参考資料】横浜開港資料館 渡辺修二関係データ(佐藤孝氏執筆)

「渡辺のその後
  退官後の著述業という以外、渡辺の動向は余り明らかでないが、昭和7年(1932)8月から17年5月官制廃止までの約10年間、維新史料編纂会委員を務めた。この間、『歴史学研究』15年11月号に「鹿児島の対外戦闘並に償金交付の始末」を寄稿、文中サトウの直話を披露している。編集後記に「渡辺翁は明治維新の生きた体験者であり、実に生きた明治史ともよぶべき方である」、論文掲載には原平三・石井孝両氏から協力を得たとある。石井は、戦後『横浜市史』常任編集委員として港都横浜の歴史を叙述する。
 成稿にあたり、横浜市中央図書館の久野淳一氏から多大なご協力、ご教示を賜りました。(佐藤 孝)」

私の関心事?
叙上の話題と関連して次の検討課題としては「渡辺修二郎『阿部正弘事蹟』明治43年刊(続日本史籍協会叢書、東京大学出版会、1978年として復刻版)濱野章吉編『懐舊紀事-阿部伊勢守事蹟-』明治32刊の言述編制法の比較」を試みざるを得まい(。すでに古地図類を含め関藤籐陰『観国録』・『備後郡村誌』・『福山志料』については検討済みだが、この方面も引き続き探究を進める予定)。 藩政村レベルでは『村史』、『当村風俗御問状答書


【メモ】 森鴎外の『渋江抽斎』
その四十四

 日本の古医書は『続群書類従ぞくぐんしょるいじゅう』に収めてある和気広世わけひろよの『薬経太素やくけいたいそ』、丹波康頼たんばのやすよりの『康頼本草やすよりほんぞう』、釈蓮基しゃくれんきの『長生ちょうせい療養方』、次に多紀家で校刻した深根輔仁ふかねすけひとの『本草和名ほんぞうわみょう』、丹波雅忠まさただの『医略抄』、宝永中に印行いんこうせられた具平親王ともひらしんのうの『弘決外典抄ぐけつげてんしょう』の数種を存するに過ぎない。具平親王の書は本もと字類に属して、此ここに算すべきではないが、医事に関する記載が多いから列記した。これに反して、彼かの出雲広貞いずもひろさだらの上たてまつった『大同類聚方だいどうるいじゅほう』の如きは、散佚さんいつして世に伝わらない。
 それゆえ天元五年に成って、永観えいかん二年に上たてまつられた『医心方』が、殆ほとんど九百年の後の世に出いでたのを見て、学者が血を涌わき立たせたのも怪あやしむに足らない。
『医心方』は禁闕きんけつの秘本であった。それを正親町おおぎまち天皇が出いだして典薬頭てんやくのかみ半井なからい通仙院つうせんいん瑞策ずいさくに賜わった。それからは世よよ半井氏が護持していた。徳川幕府では、寛政の初はじめに、仁和寺にんなじ文庫本を謄写せしめて、これを躋寿館に蔵せしめたが、この本は脱簡が極きわめて多かった。そこで半井氏の本を獲ようとしてしばしば命を伝えたらしい。然るに当時半井大和守成美やまとのかみせいびは献ずることを肯がえんぜず、その子修理大夫しゅりのだいぶ清雅せいがもまた献ぜず、遂ついに清雅の子出雲守広明ひろあきに至った。
 半井氏が初め何なにの辞ことばを以て命を拒んだかは、これを詳つまびらかにすることが出来ない。しかし後には天明八年の火事に、京都において焼失したといった。天明八年の火事とは、正月晦みそかに洛東団栗辻らくとうどんぐりつじから起って、全都を灰燼かいじんに化せしめたものをいうのである。幕府はこの答に満足せずに、似寄によりの品でも好よいから出せと誅求ちゅうきゅうした。恐おそらくは情を知って強要したのであろう。
 半井広明はやむことをえず、こういう口上こうじょうを以て『医心方』を出した。外題げだいは同じであるが、筆者区々まちまちになっていて、誤脱多く、甚はなはだ疑わしき※(「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76)巻そかんである。とても御用には立つまいが、所望に任せて内覧に供するというのである。書籍は広明の手から六郷ろくごう筑前守政殷まさただの手にわたって、政殷はこれを老中阿部伊勢守正弘の役宅に持って往った。正弘は公用人(こうようにん)渡辺三太平(わたなべさんたへい)を以てこれを幕府に呈した。十月十三日の事である。
 越えて十月十五日に、『医心方』は若年寄遠藤但馬守胤統たねのりを以て躋寿館に交付せられた。この書が御用に立つものならば、書写彫刻を命ぜられるであろう。もし彫刻を命ぜられることになったら、費用は金蔵かねぐらから渡されるであろう。書籍は篤とくと取調べ、かつ刻本売下うりさげ代金を以て費用を返納すべき積年賦せきねんぷをも取調べるようにということであった。
 半井なからい広明の呈した本は三十巻三十一冊で、巻けんの二十五に上下がある。細こまかに検するに期待に負そむかぬ善本であった。素もと『医心方』は巣元方そうげんぼうの『病源候論びょうげんこうろん』を経けいとし、隋唐ずいとうの方書百余家を緯いとして作ったもので、その引用する所にして、支那において佚亡いつぼうしたものが少くない。躋寿館の人々が驚き喜んだのもことわりである。
 幕府は館員の進言に従って、直ちに校刻を命じた。そしてこれと同時に、総裁二人ににん、校正十三人、監理四人、写生十六人が任命せられた。総裁は多紀楽真院法印、多紀安良あんりょう法眼ほうげんである。楽真院は※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)庭さいてい、安良は暁湖ぎょうこで、並ならびに二百俵の奥医師であるが、彼は法印、此これは法眼になっていて、当時矢やの倉くらの分家が向柳原むこうやなぎはらの宗家の右におったのである。校正十三人の中には伊沢柏軒、森枳園、堀川舟庵と抽斎とが加わっていた。
 躋寿館では『医心方』影写程式えいしゃていしきというものが出来た。写生は毎朝辰刻まいちょうたつのこくに登館して、一人一日いちにんいちじつ三頁けつを影模する。三頁を模し畢おわれば、任意に退出することを許す。三頁を模すること能あたわざるものは、二頁を模し畢って退出しても好い。六頁を模したるものは翌日休むことを許す。影写は十一月朔さくに起って、二十日に終る。日に二頁を模するものは晦みそかに至る。この間は三八の休課を停止する。これが程式の大要である。

その四十五


広島県文化財ニュースという雑誌のバックナンバーをチェックしてみた。この埋蔵文化財調査関係の分野は予算が潤沢なのか情報が豊富だ。ちょっと目にとまった情報・・・・・旦過寺@安芸・四日市
吉野健志「御建遺跡の発掘調査」、広島県文化財ニュース204号、平成22.10-15頁。
『芸藩通志』に秀吉が泊まった四日市(東広島市西条町西条、JR西条駅北側)の旦過寺(現在は旦過寺観音堂)の記事を確認予定(12月03日に確認済み)。安芸国分寺跡は土地割でもそのジャンボな範囲の痕跡が追跡できる。上道(うわみち)は近世の西国街道の古道(古代山陽道の遺構と考えられてきたもの。道幅は側溝を除くと150センチ程度のかなり細いものだったようだ。この上道は南東方向に直線的に伸びて、近世の山陽道と同様、松子山(まつごやま)峠に向かうことが想定できるようになったらしい、前掲論文12頁。古代の官道としては道路幅が狭すぎるので先行研究に当たるなど、要注意。現在御建公園野球場になっている一帯の円形のくぼ地はなんだったんだろう。戦時中の軍用施設?実は大正13年造営の御建神社付属の神苑付属馬場:



「御建(みたて)馬場」だった(現在は公園化され野球場)


旦過寺跡南側を南東-北西方向に土地の起伏を無視した形で伸びる直線路は「上道」(うわみち)。古代の山陽道の痕跡だと見られている。


四日市(JR西条駅)を西に通過すると山陽道及び山陽本線線路わきにひろがる田園地帯(古代条里制の痕跡が明瞭→田園部に見られる碁盤目状の土地区画)に石見瓦こと西条瓦(赤瓦)の印象的な民家が散居する農村風景となる。現在は東広島市駅前周辺の都市化が進み、市街地化している


『芸藩通志』賀茂郡 四日市・五郎丸村図中にある御茶屋は旧西国街道沿いの本陣(現在賀茂鶴酒造↓)を指す。
御茶屋は豊田郡本郷村図中にもある。なお、沼田庄の故地、本町図中には「風呂小路」。
参考文献:例えば
足利健亮:吉備地方における古代山陽道⇒内容的には全くダメ。(藤岡謙二郎編『古代日本の交通路Ⅲ』、大明堂、1981,99-105頁に転載)


高橋:『古代交通の考古地理』、大明堂、1995(備後地方は手薄で隔靴掻痒)及び『広島県史』(こちら要確認、高齢の米倉二郎執筆の場合は内容の確認が必要・・・ちょっと見、真正面からは扱っていない)
国土地理院地形図
GoogleMap松永史談会


◎旦過ついては



  1. 松永史談会記事➊

  2. 松永史談会/拙稿「尾道の『丹花(たんが)』について」、尾道文化40(2022)、63-71頁。

  3. 平泉澄『中世に於ける社寺と社会との関係』、国史研究叢書第二篇、1934、至文堂→卓越した学知的感性。

  4. 服部英雄『中世景観の復原と民衆像-史料としての地名論-』、2004→豊富な事例を掲載

  5. 榎原雅治『地図で考える中世: 交通と社会 』、 2021/3/27→思考面で上滑りや論理の飛躍が目立つ。



京都京北町(丹波吉富庄)の正尺
戦死した若い兵士墓だが墓誌に感涙を誘われそうな司令官(階級は失念)による弔いの言葉が刻まれた路傍の墓石。丹波国吉富庄を調べていてふと目にとまった。この一帯は北山杉の産地だが昭和40年代以後は典型的な過疎地だ。
NHK+で視聴して見たが、ベルリオーズ『イタリアのハロルド』(ビオラ独奏:アントワーヌ・タメスティ)から素晴らしいコンサートだった。パーヴォが常任指揮者の時はこの人の演奏は聴かなかったわたしだが・・・。この人もお父さん以上の大指揮者になることだろう。実に水準の高い気迫のこもった演奏だった!交響音がいつになくきりっと引き締まった感じで今回は名演奏にさらに花を添えるところとなったさすが、前N響常任指揮者スター
宇根が終楽章に最後列で一瞬若い飯塚?と2重奏したが、コンマスの長原・フォアシュピーラーの宇根はわたしのご近所さんなので感慨もひとしお。宇根は長原よりヒール分、高身長だな



常に高みを目指す」(N響名誉指揮者)なんでもそうだが、これがなくなったときはそのときはその人は終わりってことだ

クラシック音楽館 N響 第2034回定期公演
6/22(日) 午後9:00-午後11:00
配信期限 :6/29(日) 午後11:00 まで

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公式サイト
パーヴォ・ヤルヴィが2年ぶりの定期で熱演を披露!現代最高峰のビオラ奏者タメスティとのベルリオーズとN響初演奏となるプロコフィエフの難曲で“限界”の壁に挑みます。【曲目】ベルリオーズ/交響曲「イタリアのハロルド」▽プロコフィエフ/交響曲第4番(改訂版/1947年)【演奏】指揮=パーヴォ・ヤルヴィ、ビオラ=アントワーヌ・タメスティ、管弦楽=NHK交響楽団【収録】2025年4月12日NHKホール