牧場を作ったのはいいのですが、場所は日暮里、明治期の旧東京市。建物の少ない閑散とした時代とは言ってもどうしてもスペースとしての限界がきてしまいます。牛を増やすことにも上限が出来てしまうでしょう、その結果として製乳施設にも支障をきたすこともあるでしょう。
だったらどうすべきか、日本経済の父・渋沢栄一は答えを郊外に求めました。郊外としてどこに白羽の矢を立てたか、現在でも郊外とは呼びずらい箱根でした。明治期の箱根仙石原、まさに何もない荒野といった状態でした。
江戸時代よりの箱根裏街道の関所があるくらいの周辺山々の要害、江戸中期に大涌谷からの引き湯は始まってましたが、交通手段のない秘湯中の秘湯としての存在です。事実、明治初年から開墾事業を始めたものの途中で挫折したという経緯もありました。
そこに目を付けたのが渋沢です。1880(明治13)年にこの県有地払い下げを受け、再度の開墾の末に牧場に転用しました。何もない広大な土地、牛を育て増やすにはむしろ絶好の環境。ここで生まれた牛が生育と同時に都内に移動させ、乳牛として活躍させました。1887年前後のことです。
子牛の育成が仙石原での当初の目的でしたが、やはり広大な土地が目の前に広がっています。だったらこの地でも独立した牧場として経営すべきではないかとの意見が出てきました。当社初代・浅次郎の日暮里支店をはじめ各牧場には種牛も配置して、乳業の態勢のみならず増殖体勢も整ったので当然の発想でしょう。
この耕牧舎仙石原牧場では大々的な牧場経営に乗り出したことが各種資料から分かりました。乳牛用の牛だけではなく羊や山羊なども飼育し、馬もサラブレッドの競走馬まで飼育するようになったようです。広大な土地を背景に牛舎などの大規模な家畜用施設に製乳所まで設け、耕牧舎グループ最大の牧場へと成長していきました。引いては耕牧舎は日本乳業黎明期をけん引する存在へと繋がっていくのです。
だったらどうすべきか、日本経済の父・渋沢栄一は答えを郊外に求めました。郊外としてどこに白羽の矢を立てたか、現在でも郊外とは呼びずらい箱根でした。明治期の箱根仙石原、まさに何もない荒野といった状態でした。
江戸時代よりの箱根裏街道の関所があるくらいの周辺山々の要害、江戸中期に大涌谷からの引き湯は始まってましたが、交通手段のない秘湯中の秘湯としての存在です。事実、明治初年から開墾事業を始めたものの途中で挫折したという経緯もありました。
そこに目を付けたのが渋沢です。1880(明治13)年にこの県有地払い下げを受け、再度の開墾の末に牧場に転用しました。何もない広大な土地、牛を育て増やすにはむしろ絶好の環境。ここで生まれた牛が生育と同時に都内に移動させ、乳牛として活躍させました。1887年前後のことです。
子牛の育成が仙石原での当初の目的でしたが、やはり広大な土地が目の前に広がっています。だったらこの地でも独立した牧場として経営すべきではないかとの意見が出てきました。当社初代・浅次郎の日暮里支店をはじめ各牧場には種牛も配置して、乳業の態勢のみならず増殖体勢も整ったので当然の発想でしょう。
この耕牧舎仙石原牧場では大々的な牧場経営に乗り出したことが各種資料から分かりました。乳牛用の牛だけではなく羊や山羊なども飼育し、馬もサラブレッドの競走馬まで飼育するようになったようです。広大な土地を背景に牛舎などの大規模な家畜用施設に製乳所まで設け、耕牧舎グループ最大の牧場へと成長していきました。引いては耕牧舎は日本乳業黎明期をけん引する存在へと繋がっていくのです。