ゴールとブランディングは「混ぜるな危険」:エゴを燃やし尽くしたら欲望という名のゴールが観えてくる | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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タンバリン担当ならちゃんと叩け、自分の役割をきっちりやれ(クリス・ロック)」と言うと、「それはWant toではありません!」という反論がすぐに脊髄反射で来ることがあります。

 

自分はリード・ボーカルがしたい(Want to)のであって、タンバリンは本望ではない。

 

「それが「自分の役割」と言われても困ります!!自分は球拾いではなく、エースで4番が良いし、皿洗いではなくメインシェフになりたいし、雑用係ではなくリーダーになりたいのです!!」

などと宣言して、怒ってタンバリンを投げ捨ててしまうのです。

 

タンバリン担当ならちゃんと叩け
笑顔を浮かべて叩くんだ
怒ったタンバリン奏者なんて誰も見たくない
自分の役割をきっちりやれ(クリス・ロック)

スタンダップコメディアンのひとつの特長は自分の置かれた境遇を(ひどい差別であったり、不条理を)笑い飛ばすことにあります。

その前提を踏まえないと笑いが理解できないかもしれません。

 

クリス・ロックのタンバリンを知らない人も多いと思うので、長めに引用します!

これはアカデミー賞でウィル・スミスがクリス・ロックを平手打ちしてしまうという不幸な事故を踏まえた書いた記事です。

 

ちなみに、Netflix作品の「タンバリン」というタイトルの意味は夫婦生活が長続きする秘訣から来ています。ちなみに彼は離婚しています。離婚してしまい、愛する娘とも会えなくなるかもしれない絶望を乗り越えた1人の男としての智慧をシェアしています。

 

長い結婚生活のためのルールは2つあります。

 

(引用開始)

ルールNo.1。

競争するな
意味がない
一人が成功したら二人の成功だ。競争するな

ルールNo.2。
対等な関係はない。
言い張ってもムダだ。
両方が尽くす側だ。


サービス業界だと思え
2人共だ
自分はバンドの一員だと思え


バンドではそれぞれに果たすべき役割がある

シンガーもいれば、、、、タンバリン担当もいる

タンバリン担当ならちゃんと叩け
笑顔を浮かべて叩くんだ
怒ったタンバリン奏者なんて誰も見たくない
自分の役割をきっちりやれ

(引用終了)

 

 

スタンダップコメディの中で語られて、非常に面白いと同時に非常に深みがあります。

僕は、「対等な関係はない、両方が尽くせ」という言葉にイエスのリーダー論を見ます。

c.f.あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきで 2019年02月01日

c.f.食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。しかし、私は給仕をする者のようにしている(ルカ書) 2022年01月02日

 

また、「タンバリン担当ならちゃんと叩け」それも笑顔を浮かべて、というところに、能力の輪からの「才能”革命」を見ます。

 

自分はシンガーになりたくてバンドを組んだのかもしれませんが、でも自分はタンバリン担当なのです。タンバリン担当ならば、そこに一所懸命に生きるのが良いのです。それが幸福への道なのです。

クリス・ロックもウィル・スミスも自分のタンバリンを笑顔で叩き続けたのだと思います。どれだけ侮辱されようが、差別されようが、不条理であろうが。

 

 

 

共同体が先にあり、個人はあとからそこに参入します。

共同体が最小単位と言ったのはアリストテレスです(政治学)。

 

そこにある差別をおかしいと言っても、その不条理は理屈に合わないと言っても仕方ないのです。

我々はその前提を所与の条件として認めた上で、どうハックするかを考えなくてはいけません。

(「この社会はおかしい」と叫ぶだけだと、しばしば自分の正義を押し付けるという新しい暴力にしかならないのです。ジジェクの指摘の通りですね)

 

 

で、正直な感想を言えば、大概は個人のほうがおかしいのです。

 

その個人の方の視野が狭く、傲慢で、不合理なのです。ただ、その狭さと悪い意味での狂気を全て焼き尽くしたあとに残るのがシンのゴールであり、社会が受け入れてアウフヘーベンしなくてはいけないものなのです(←「全て個人が悪い!!」というような悪しき集団主義的な議論ではないということです)。

 

芋洗いのように個人が個人とぶつかりながら磨かれ、成長するということは実際に存在します。

 

 

で、話を戻しますが、ここでのWant to、Have toの議論の何が誤っているかといえば、ゴールと現状の混同にあります。未来と現在が混乱しているのです。

 

わらしべ長者や三年寝太郎という極東の神話をしっかり認識すると、未来と現在は「混ぜるな危険」であることが分かります。

 

僕らがLIAR GAMEやDeath noteを好きなのは、ここを勘違いしていないからです(勘違いしたら生き残れません)。

 

わらしべ長者と同じく、心に大きなゴールを抱きながら(それは生き残りたいという強い欲望とリンクされながら)、その行動においてはそれを少しも見せないからです。むしろ逆の姿を見せたりします。これが我々が目指すべき姿なのです。

 

 

 

屈辱に耐え、侮辱に耐え抜き、最終的には大きな果実を手にするのです(故事で言えば「韓信の股くぐり」ですね)