ちゃんと皿洗いをする人が欲しいのです。
野球部の球拾いであったり、調理場での皿洗いというのは最底辺の仕事のようなイメージがあります。だから、入部したてのころ、調理場に入りたてのころに、自分としては4番でピッチャーになったり、トップシェフになりたいという気持ちがあるのは分かるし、良いことです(ご自身のゴールに置き換えて読んでくださいー。たまに、俺は野球も料理も興味はない!という愚のつかない反論をしてくる人もいますのでー。それは反論ではなく、想像力の貧困)。
しかし与えられた仕事(役割)を天職と思って、一所懸命にやることです。
タンバリンを渡されたら、楽しそうにタンバリンを叩くことです。俺はリード・ボーカルだったら本気出せたのにとか言わないことです。それは天につばを吐く行為です。
c.f.タンバリン担当ならちゃんと叩け 笑顔を浮かべて叩くんだ 怒ったタンバリン奏者なんて誰も見たくない 2022年03月31日
(と書きながら、自分自身を顧みて「怒ったタンバリン奏者」にならないように、笑顔を浮かべてちゃんと叩こうと思いました〜)
皿洗いにもセンスは必要です。
集中も必要。
料理がどれほど素晴らしくても汚い皿に盛られたら台無しです。農家さんたち生産者から輸送した人、調理人の調理のバトンを最後の最後で落とすことになります。
料理の上手な人は皿洗いも上手なもの。
余談ですが、僕も以前の職場でちょっとだけ大量調理の現場で皿洗いやサーブをしていたことがあります。
お皿はいつも足りないのです。
皿洗いが効率的で正確で、そして次にサーブする料理を見ながら優先順位をつけてくれないと困るわけです。
たかが皿洗い、されど皿洗いなのです。
その手際ややり方や性格などを見て、一緒に働くかどうかを上の人は決めていきます。
そこに「俺はまだ本気出してないだけ」はありえないのです。
どこでも全力投球です。
自分は「気の玉」しか自信を持って作れないというのであれば、それで良いのです。ひたすらに皿を洗うようにひたすらに気の玉を作ることです。
Echo(傾聴)しかできなくて、気の利いたアドバイスなどできない、、、と思ったら、それは大いなる誤解です。コーチングにおいて「気の利いたアドバイス」など求められていません。ひたすらEcho(傾聴)する中で、相手の場が変わっていくのを共感覚で観ることが求められています。
正解を教えることではなく、本人が自力で見出すのを助ける作業が肝となります。
ちゃんと皿洗いできる人が欲しいというのは、よく働く奴隷が欲しいというわけではありません(いまはしっかり食洗機がやってくれます。今度は逆にきちんと食洗機を使いこなす人が欲しいのです)。
最終的に何を目指すにしても、踏むべきステップというものがあるということです。
気功技術は魔法ではなく、科学です。
「1から5まで数字を唱えよ」と言われたら、唱えれば良いのです。
タンバリンを渡されたら、真剣に笑顔を浮かべて正確に叩くべきなのです。
一生、皿洗いで終わるかもしれないなどとエゴが泣き言を言いだしたら、「一生、皿洗いで終わったとしても、この偉大な調理の一部として自分がささやかでも機能を果たせるならそれも本望」と嘯(うそぶ)くことです。「地獄一定」(親鸞)の精神です。
銀のスプーンを咥えて生まれてきたような恵まれているように観える人々ですら、その裏では壮絶な地獄が口を開けているのです。
実際に上の人は見ているものですし、よく見えるものです(見えていないこともたくさんあります。でもゴールにとって不要なことはスコトーマに隠した方が良いと僕は思います)。
上の人を「カミ」と呼び、転じてカミサマとなりました。
(ここらへんの危うい議論はシン・TENET、RayTENETでがっつりやりました。来年6月あたりにシン・シン・TENET(TT)を開催予定です)
カミサマからの情報、理想の未来からの情報をオラクルと呼び、それは計算量を大幅に引き下げてくれます。計算量が下がることを具体的に考えると、たとえば1万年かかっていたことが、10年でできるようになるということです。ImpossibleがI'm possibleになるなどとスピリチュアル界隈では言ったりしますね。
「硬いアイスの美味しい食べ方」などと言いますが、皿洗いやタンバリンを叩き続けることで、最も硬いところがゆるやかに溶けていくのです。そして気付いたらとんでもない場所へワープしてしまうものです。
自分にとっての球拾いや皿洗いとは何かを真剣に考えれば、道は開けていくはず!(多分!)