天球が回転して、星々が動いていると思っていたけど、実は動いているのは僕らの方だった | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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ハワイ島のマウナ・ケア山の山頂付近というのは各国の天文台が集まっています。

 

天文台が集まるだけあって、星空がくっきり見えます。世界一、夜が暗い場所です(ハワイ諸島自体がそもそも太平洋の真ん中にボツンとあるので)。

 

そこで星空を眺めると、古代ギリシャの人々が眺めていたのと同じ気分を味わえます。

今にも落ちてきそうな輝く星々があり、まさに天球が回転するように時間とともに動きます。

 

プラネタリウムのような感じです。

 

コペルニクスが天球の回転について考えたとき、天球はまさに回転して見えていました。

しかし、その天球の回転を仔細に分析していけば(特に惑星の運行の辻褄をあわせるためには)、実は動いているのは天ではなく、自分だったということに気付かされるのです。

 

名著「天球の回転について」は、タイトルと異なり、自分たちの足元の回転がオチだったのです。

 

 

ループ重力理論のカルロ・ロベッリはこれをオイディプス王の悲劇に喩えます。

 

オイディプス王は自分がおさめるテーバイになぜ悪疫が広まるのか、その犯人探しをしようと決めます。そして犯人を探せば探すほど、犯人を追い詰めれば追い詰めるほど、犯人は自分なのではないかという疑心暗鬼に囚われます。

というか、犯人探しの探偵ごっこの冒頭で、盲目の預言者テイレシアスからそのように断定されています。

 

「犯人はあなただ」と(笑)

 

いや、笑い事ではないのですがw

 

オイディプス王はそれを軽視して、犯人探しを続け、最後にはとうとう見事犯人を捕まえて、その目を突きます。目を突いて、追放します。

 

すなわち、自分の目を突いて、自分をテーバイから追放するのです。

 

 

コペルニクスが天球の回転について考えたときも、自分の目を突き、自分を追放したくなったのでしょうか?

 

少なくとも、自分が追放されるか、火炙りにされるリスクは考えていたので、出版は死ぬ直前にしています。

 

その上で(ニュートンのように)これは事実の記述ではなく、数学上のモデルであると冒頭に念を押しているほどです(それほどまでにキリスト教と世俗と大衆を恐れたのです)。

 

 

コペルニクスが天球の回転に、何を見たかは皆さんご承知の通りです。

 

天球の回転ではなく、自分が回転(自転)していることに気付いたのです。

 

 

すなわち、動いているのは自分だと。自分の視点が動いているのを、(自分は静止しているとみなして)全宇宙が回転している(天球の回転)と見做していただけだということです。

 

このパラダイム・シフトは強烈でした。

 

しかし、科学哲学などでは常識ですが、このパラダイム・シフトは決して、美しいものではありませんでした。

 

たとえば、ニュートンのパラダイム・シフトは新しい予想をもたらしました。アインシュタインのパラダイム・シフトは数多くの驚くべき(SFのような)予想をもたらしました。そしてそれは次々と成就しました。

 

コペルニクスの起こしたパラダイム・シフト(天動説から地動説へ)は、実は新しい予想を産まず、より洗練された計算も生み出していません(テクニカルな話をすれば、天体の運行が真円であると考えたがゆえに、計算が狂ったのです。なぜ円だと考えたかと言えば、アリストテレスがそう言ったからです)。

 

ですので、当初は天動説の方がはるかに正確に天体の運行を計算できました(テクニカルな話をすれば、ご承知のようにケプラーによって楕円運動をしていることが示され、ニュートンによって重力の理論に昇華されました)。

 

で、あっても、これは偉大なパラダイム・シフトでした。

 

いわゆるコペルニクス的転回であり、科学革命の輝かしい例として歴史に名を刻んでいます。

 

 

しかし、、、、、実際はニュートンもプリンキピア・マテマティカで指摘しているように、これは車輪の再発明だったのです。古代ギリシャにすでに地動説は存在していました。

 

古代ローマのギリシャ人であるプトレマイオスが天動説を高らかに宣言して、1500年近く暗黒の時代が続いたのです。

 

 

今回の話のメインはそこではなく、これがイントロダクションです。

 

天球の回転を観察していたら、自分たちが回転していた(オイディプス王のように自分が犯人だった)ように、時間の流れもまた、時間が流れているのではなく、自分たちが流れているのです。

 

これがカルロ・ロベッリの結論であり、量子重力理論の見方です(そこからすると、マルクスガブリエルの議論はあまりに底が浅すぎて、怒りすら覚えます。亡霊と闘っているようです。物理学は「モノ」に執着するのをやめて、もう100年は過ぎようとしているのに、古い哲学を持ち出し、浅薄な議論を持ち出して批判するのは、アホなのかと思います)

 

(引用開始)

 現在わかっているもっとも根本的なレベルでは、わたしたちが経験する時間に似たものはほぼないといえる。「時間」という特別な変数はなく、過去と未来に差はなく、時空もない。

それでもこの世界を記述する式を書くことはできる。それらの方程式では、変数が互いに対して発展していく。それは「静的」な世界でも、すべての変化が幻である「ブロック宇宙」でもない。それどころか、わたしたちのこの世界は物ではなく、出来事からなる世界なのだ。(引用終了)

 

最後の一文に特に注目です。

 

それどころか、わたしたちのこの世界は物ではなく、出来事からなる世界なのだ。

 

です。

 

この世界は物ではなく、

 

です。

 

これが物理学です。

物理学をベースとする、神経科学もそう考えています(多分)。

ガブリエルはどこの宇宙の物理学や脳科学を批判しているのでしょうか。

 

そしてそもそもこれって、哲学でも100年ほど前に通過しました。

 

 「世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』 1921年)

 

 

なのに、なぜこの偉大な哲学者は、物理学者がいまだにモノにこだわっていると確信しているのでしょうか?

自分の中の妄想を相手に、論争をしかけているとしか思えません。

 

量子論の基礎を学べば、相互作用があって、モノという現象が生じることは分かるはずです(それは、縁によって生じるという縁起そのものです)。

 

世界は存在しない、しかしユニコーンは存在する」というマルクス・ガブリエルのキャッチコピーを読んで、「いやいや、でも太陽も月も地球も存在するじゃないですか」と批判するのと同じです(この批判はもちろん的外れです。でもそれと同じことをガブリエルは物理学や神経科学に対して延々とやっているように僕には見えます)。中身を読みましょうって思います。

 

という余談もさておき、、、、

 

 

ポイントは時間の流れというのは、第一にエントロピーと大きく関わっているということ、第二にアインシュタインの相対論は現在では近似解でしかないということ(ニュートン力学もアリストテレスの物理学も同様です)、第三に、天動説と地動説同様に視点の問題だということです。

 

ここから我々は恐るべき結論を引き出せます。

 

とは言え、その真に驚くべき方法を書くにはここには余白が足りなすぎるので、また稿を改めます。

 

立方数を2つの立方数の和に分けることはできない。4乗数を2つの4乗数の和に分けることはできない。一般に、冪(べき)が2より大きいとき、その冪乗数を2つの冪乗数の和に分けることはできない。この定理に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。