ローマ法王のインスタグラムと「神はなぜ戦争をお許しになるのか?」という問い | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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ローマ法王がInstagramを始めたそうですね。



*削除されていたので変更しました(2017/07/27)

我々が宗教やキリスト教について感じる漠然として、そして間違ったイメージは「信じるものは救われる」です。

「信じるものは救われる」と布教された人もいるのかもしれませんが、これほどキリスト教的ではない言説もありません。

そして「信じるものは救われる」ということを信じている信者がいるとしたら、これほどキリスト教理解から遠い人もいません。そしてキリスト教はきわめて論理的で知的なものです。
そういうイメージがないのは、我々がキリスト教から遠いからです。

キリスト教もそうですし、宗教というのは本来はそういうものです。
そういうイメージがないのは、我々がきわめて宗教的ではないからです。

Logosのベースはキリスト教であり、宗教です。
Logosの後ろにキリスト教があるという意味ではもちろんありません。
Logosと同じ集合にキリスト教もギリシャ神学もあるとは思います。
そしてキリスト教やギリシャ神話に対する理解が深くなればなるほど、Logosに対して正しく向かい合えるのではないかと思っています。

今回のスクールでも「信じる者は救われる」をめぐってディスカッションしました。

キリスト教的に言えば「信じる」を誰が決めるのか?(神が)
救われるかどうかは誰が決めるのか?(神が)(これは予定説的な考え方ですね)

だから自分が(人間が)「信じる者は救われる」と言ってはアウトなのです。

(引用開始)
18:9 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
18:10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
18:12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
18:14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
ルカ18:9-14)(引用終了)

胸を打ちながら『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と言ったものが義とされるのです。

一方で「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」というパリサイ人が義とされないのです。

律法を守るどころか、律法も知らずに「信じる者は救われる」などという人を神が義とする可能性はないのです。


Logosも同じです。

Logosは外にあるのです。


たしかに自分の内に探すのですが、自分の内面というのは消化器のようなもので外側なのです(胃の中はトポロジカルには外です)。

自分の内にあるLogosもまたそれを見つめて、高めようとしたら、外にあるとして考えるべきです。

今回のスクールで言えば、自我という点の周りにフワフワとすべてのものが浮いていると考えると良いのです。
臓器も筋肉もアミノ酸もグリコーゲンもフォームや意志や性格も行動も動きも浮いていると考えると良いと思います。ぷかぷかと浮いているのです。情報空間という海に浮いているのです。

何度かセミナーで紹介しているD・M・ロイド・ジョーンズの「Why Does God Allow War?(神はなぜ戦争をお許しになるのか?)」から引用します。

僕もとあるセミナーでこの著作を知りましたが、かなり面白いです。真っ直ぐにキリスト教的です。
説教集なので、語り口は易しいです。バルトを読むのもとても良いですが、キリスト教の思想のゲシュタルトを素早く手に入れるにはロイド・ジョーンズは良いと思います!!


*Dr. Martyn Lloyd-Jones Onlineから写真をお借りしました!http://www.misterrichardson.com/mlj.html


ロイド・ジョーンズは「神に対する傲慢さ」の例として次のように語っています(説教なのでまさに語っています)。

私たちはためらうこともなく、ごく当たり前のように、自分には神の行なう一切合財が理解できるものと決め込んでしまう。私たちは、自分自身に、また自分自身の精神と理解力と意見とに絶大な自信を持つあまり、自分の同胞の行動をとがめるのと全く同じように、神の行動をもとがめ、疑いを持つのである。私たちは、何が正しく、何が最善であるかを知っているものと感じ、信じている。私たちの自己信頼には限りも果てもなく、私たちの精神や知性に到達できないもの、正しくわきまえきれないものがありうるなどと信じるのを拒否する。(p.76 D・M・ロイド・ジョーンズ「Why Does God Allow War?(神はなぜ戦争をお許しになるのか?))」

ちなみに文章は著者の声で聴くようにすることだと僕は思います。
速読などはやらないほうがいいです(かなりの量を読んできてから、試すべきです)。

ロイド・ジョーンズの肉声はいくつもYoutubeにありますが、その1つを!




ちょっと脱線しますが、本の読み方のコツは「声で聴く」ことです。

できればその人の声で聴くのが理想です。
その意味で文字など存在しないと考えましょう。文字は音符のようなものです。楽譜を見て、音符の位置だけを眺めることはありません、楽譜を読むときは脳内に音が鳴り響きます。

読書も同じです。

「はじめに音ありき」なのです。

肉声を脳内に響き渡らせましょう。


昨日のスクールでは小林秀雄さんの肉声を聴きました(小林秀雄さん、中村元さんの肉声はこちらのブログから)。

小林秀雄というと端正な文章、端正な論理というイメージです。「ちょっと頭の良すぎる嫌な感じがするな~」と若いころは思ったものですが、この肉声を聞いて印象がガラッと変わりました。この喋り方で小林秀雄を読み直すと意味がするすると頭に入る気がしました(気がしただけであり、理解には程遠いのですが、それでも大きな一歩です)。

小林秀雄さんの文章というのはこんな感じです(はじめて紹介したのはこちらです!「走れ、走れ! 僕の行けなかった道を」の傲慢 2012-08-21
よく引用するのでお馴染みかと思います。

(引用開始) 先日、ロンドンのオリンピックを撮った映画を見ていてが、そのなかに、競技する選手たちの顔が大きく映し出される場面がたくさん出て来たが、私は非常に強い印象を受けた。カメラを意識して愛嬌笑いしている女流選手の顔が、砲丸を肩に乗せて構えると、突如として聖者のような顔に変わります。どの選手の顔も行動を起こすや、一種異様な美しい表情を現わす。むろん人によりいろいろな表情だが、闘志などという低級なものでは、とうてい遂行し得ない仕事を遂行する顔である。相手に向かうのではない。そんなものはすでに消えている。緊迫した自己の世界にどこまでもはいって行こうとする顔である。この映画の初めに、私たちは戦う、しかし征服はしない、という文句が出て来たが、その真意を理解したのは選手だけでしょう。選手は、自分の砲丸と戦う、自分の肉体と戦う、自分の邪念と戦う、そしてついに征服する、自己を。かようなことを選手に教えたものは言葉ではない。およそ組織化を許されぬ砲丸を投げるという手仕事である、芸であります。見物人の顔も大きく映し出されるが、これは選手の顔と異様な対照を現わす。そこに雑然と映し出されるものは、不安や落胆や期待や興奮の表情です。投げるべき砲丸を持たぬばかりに、人間はこのくらい醜い顔を作らねばならぬか。彼らは征服すべき自己を持たぬ動物である。座席に縛りつけられた彼らは言うだろう、私たちは戦う、しかし征服はしない、と。私は彼らに言おう、砲丸が見つからぬ限り、やがて君たちは他人を征服しに出かけるだろう、と。また、戦争が起こるようなことがあるなら、見物人の側から起こるでしょう。選手にそんな暇はない。(引用終了)小林秀雄「私の人生観」pp.122-123 


端正な文章です。

しかしこの録音を聞いてからだと、また読みの深さが変わると思います。


*冒頭は録音状態が悪いので、途中から聞いて下さい。


もちろん録音であっても肉声を聞けるというのは稀有なことです。

ソクラテスはYoutuberではありませんでしたし、カントもヘーゲルの声も聞こえません。
でも何度も読んでくると、あるときに突如として、その人柄が見え、声が聞こえてくるような気がします(ソクラテスはべらんめえ調のおっさんに聞こえます)。


僕はヘーゲルが進軍してきたナポレオンを見て、友人に書いた手紙を読んで、ヘーゲルの肉声に触れた感じがしました。

(ナポレオンのイエナ入城を目の当たりにしながら)
「私は、皇帝、この世界精神が町を通って陣地偵察のため馬を進めるのを見た。この一地点にあって馬上に座しながら、しかも全世界をおおい、支配する人を見るということは、まったくなんとも言えない感じがする」(十月十三日、ニートハンマー宛)


世界史とは、統御されない自然的意思の鍛錬であり、その意思を普遍的原理に服従せしめ、それに主観的自由を与えることである。」とよそ行きの顔で書いている硬すぎる文章とは別のヘーゲルの肉声が手紙の中にあります。

たとえば新進気鋭の哲学者が大好きなアイドルの舞台を観に行って、「私は、◯◯ちゃん、この女神が舞台に立って踊るのを見た。この一地点にあって、マイクを持ちながら、しかも全世界をおおい、支配する女神をみるということは、まったくなんともいえない感じがする」という感じですかね、、、
(あまり良いたとえではない気もします)


カントに関して言えば、難解という印象がありましたが(いや難解なのですが)、大学でその主著純粋理性批判の原書講読をしているときに、非常に日常的な話題でひたすらに「先験的総合判断」の定義をしようとしている姿にカントの肉声を見た感じがしました。

いやいや、別な例でいきましょう。
たとえばカントというとクソ真面目なイメージがありますが、「永遠平和のために」の序文を読んだときにその印象が変わりました。
真面目な学級委員長がクスリともせずに面白いことを言うようなイメージです。

「永遠平和のために」の序文の冒頭はこんな話から始まります。

(引用開始)
「永遠平和のために」というこの風刺的な標題は、あのオランダ人の旅館業者が看板に記していた文字で、その上には墓地が描かれていたりしたが
(引用終了)(カント「永遠平和のために」)

「永遠平和のために」という大仰な物言いがカントの生真面目さではなく、カントの洒落であったことも驚きですが、自分の著書のタイトルをオランダ人の旅館業者が看板に記していた文字から取るという洒脱さに惹かれました。

そもそも「永遠平和のために」という文句は墓地に書かれる言葉です。だからこそ旅館業者の看板には墓地が描かれています。僕はここに「敵も味方も皆死ねば争いは無い(=永遠平和)」という諦観に似た洒落を感じます。
逆に言えば、人は生きている限り平和にはならないという諦めもあるのかもしれません。

ギャグを解説するのと似ていて、面白みというのは解説するのが難しいのですが、ここにカントの新しい一面を見た気がして、それ以降カントの肉声が頭に響くような感じがしています。


閑話休題


ロイド・ジョーンズの説教の話でした。

ロイド・ジョーンズは次の態度を傲慢として戒めます。

私たちは、何が正しく、何が最善であるかを知っているものと感じ、信じている。私たちの自己信頼には限りも果てもなく、私たちの精神や知性に到達できないもの、正しくわきまえきれないものがありうるなどと信じるのを拒否する。

僕の好きな著者が「『自分は間違っているかもしれない』というステッカーを車に貼っておけ」と言っていました。自分の主張に絶対的な確信を持つことは重要ですが、その隅にゲーデル数のように「自分は間違っているかもしれない」という囁きをセットしておくことです。

神に対する態度も、Logosに対する態度も、「自分の精神や知性に到達できないもの、正しくわきまえきれないものがあると信じる」ところからスタートすべきです。

そう考えれば、「信じる者は救われる」などという戯れ言は、寝言は寝てから言えということになるわけです。


昨日のスクールで引用したことで言えば、

あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。マタイ6:27

となります。我々はその意味で無力です。


そこで理解されるのは、

天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)


だからこそ、イエスですら「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。ルカ 22:42と言ったのです。

自分の願いと主の御心が異なる可能性について熟知していたのです(一致することも多いです。だからこそ「魚を求めてヘビを与えることがあろうか」「叩けよさらば開かれん」なのです)。


我々が想定しうるギリギリの絶対的なものに対する服従(イスラーム)こそが、人を自由にするのです。



【参考書籍】
神はなぜ戦争をお許しになるのか/いのちのことば社

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純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)/岩波書店

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純粋理性批判 (まんがで読破)/イースト・プレス

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法の哲学〈1〉 (中公クラシックス)/中央公論新社

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法の哲学〈2〉 (中公クラシックス)/中央公論新社

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余談ですが、ニーチェは「神が人間を創った? いや人間が神を創ったのだ」と言います。
それはどちらでも良いのですが、アホな人間がつくった下手くそな神が「信じる者は救われる」などと言わせしめるのであって、かつての天才たちが創った神はもっとマシなのです。