「はじめに言葉ありき」(新約聖書)が「アルケーはロゴスである」(古代ギリシャ哲学)と読めるワケ | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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「はじめに言葉ありき」とはヨハネ福音書の有名な冒頭です。
ここには古代ギリシャ哲学のエッセンスが込められているとしたら、相当に驚きです。
ギリシャ哲学からスタートしているのがヨハネ福音書ということになるからです。

(ちなみに、「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」と始まるマタイ福音書は旧約聖書を踏まえていることを示しています。旧約聖書を圧縮したら父の系譜になったということです。
とは言え、イエスの父はヨセフではないはずなのですが、、、、、(・_・;))

僕等はキリスト教神学は古代ギリシャ哲学(スコラ哲学)とかなり争った上で、最終的に古代ギリシャ哲学を併呑してしまったという理解を我々はしています(それゆえの傲岸不遜な発言が「哲学は神学の婢”ancilla theologiae”です。神学者トマス・アクィナスたちの物言いです)。それがキリスト教神学のスタートであったと学んできました。

ですが、実際は聖書書記者の時代において、すでにギリシャ哲学の軍門に下っていると言って良いのではないかと思います。なぜならヨハネ福音書の冒頭はギリシャ哲学の宣言だからです(ちなみにヨハネ福音書だけが、他の福音書と毛色が異なります。マタイ、ルカはマルコとQ資料を参照しているのはご承知のとおりです)。


ただ、日本語や英語でヨハネ福音書を読むとそうは思えません。
「はじめに言葉ありき」もしくは"In the begging, was the Word" と訳されると、はじまりの時について語っているように思えます。最初にというニュアンスです。


しかし、ギリシャ語、ラテン語で読むと聖書書記の真意が読めます。

「まといのば」メンバーにはお馴染みでしょうが、ラテン語ではこのヨハネ福音書の冒頭は

In principio erat verbum

となります。

ラテン語はローマ字読みしますので、イン プリンピキオー エラット ウェルブンでした。

In the begging was the Word

と英語とラテン語は綺麗に対応しています(ラテン語には冠詞がありません)。


残念なことに、翻訳という伝言ゲームはしばしば意味を欠落させてしまいます。

可能な限り、原典に肉薄したほうがいいのは、書かれた意味を正しく理解するためです。


余談ですが、新約聖書学の大家(たいか)である八木誠一先生の講座で、こんなことがありました。

講座中にふと聖書から引用をされようとして、「先生が新約聖書を持っている人?」と生徒に聴きました。
驚くべきことに、ほぼ全員の手が上がったのですが(新約聖書はそのときテキストでは無かったので)、八木先生いわく、「いやいや、英訳ではなく、ギリシャ語版です」と。

若かった僕はギリシャ語聖書なんて持っているやつなんているの??と心の底で思ったら、、まだ複数名の手が上がっていました。
驚いたとともに、ギリシャ語聖書を普通に持ち歩いているってCoolだなと思いました。


僕はラテン語しか分からないので、寺子屋ではラテン語を引いていますが、本当はギリシャ語で読みたいです。

ギリシャ語では、
Εν αρχηι ην ο Λόγος
(En arkhēi ēn ho logos、エン・アルケー・エーン・ホ・ロゴス)

とあります。

ここに、αρχηι(アルケー)と書いてあるのです。

「アルケーはロゴスなり」とギリシャ語で書かれているということです。

「はじめに言葉ありき」とは、アルケーがロゴスであるという意味だと解釈すると、稀に反論されることがあります。
「いや、そうは読めない」と。「それは拡大解釈なのではないか?」と。
「英語のBeginにそんなアルケーのような意味は無い」という反論です。

ですが、日本語訳や英語訳をめぐっていくら議論しても埒(らち)があかないのです。

もし議論するのであれば、せめてラテン語か、できればギリシャ語でやりたいのです。八木先生が英語版では聖書は読めないと考えたのと同じです。

ラテン語ではPrinpicioとありますが、これはPrincipleという派生語からも分かるように「はじめ」というよりは「原理」です。
ユークリッドの公理が冒頭にあるようなもので、原理は最初に置かれるのです。

ですから、「はじめに言葉ありき」というヨハネ福音書の冒頭を我々はラテン語だけではなく、ギリシャ語もとりあえず暗記してしまいましょう。

Εν αρχηι ην ο Λόγος
(En arkhēi ēn ho logos)
(エン・アルケー・エーン・ホ・ロゴス

そうすると、αρχηι(アルケー)はΛόγος (ロゴス)であると堂々と書かれているのが肌で感じられます。

我々もロゴスを始めとしましょう!




*ラファエロの「アテナイの学堂」は古代ギリシャの哲学者を全員集合させ、それぞれの哲学の中心命題を描いています。その意味で「古代ギリシャ哲学全書」を絵のカタチにしたものと言えます。
まさに絵画は「読む」ものです。このギリシャ哲学全図がバチカン教皇庁にあるところが面白いと言えます。
絵の中心にプラトンとアリストテレスの師弟を配置し(ソクラテスはちょっと外れています)、プラトンの顔を尊敬するレオナルド・ダ・ヴィンチにしたところにラファエロのこだわりが見え隠れします。