はじめのうちはかなりうまくいくかもしれない。しかし、だんだんうまくいかなくなるんです。 | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

四ツ谷にありますバレリーナ専門の気功整体「まといのば」のブログです。
気功師から見たバレエとヒーリングのコツを公開します。
「まといのば」では、バレエ・ヒーリング・美容の各種セミナーを行っております。

最初はちょっとしたパロディから。

昨日から気功師養成スクールがスタートしました。
気功ということにフォーカスした全く新しいスクールです。
かなり豪華なメンバーでの開校です。

(引用開始)

いま伝授したことが、「まといのば」がいま必要と思っているすべての気功技術と理論です。

もしかしたら、「なんだ、簡単じゃないか。こんな気功技術リストなら全部トリガーを暗記してしまえばいいんだろう。そうすれば気功はみんなわかってしまう」と言うかもしれないけど、そうはいかないんです。

実際のところ、はじめのうちはかなりうまくいくかもしれない。しかし、だんだんうまくいかなくなるんです。


(引用終了)

これは「まといのば」の偽らざる感覚です。

かつて「まといのば」では、ある一連の気功の技をパッケージ化すれば、時間もセーブできるし、再現性も高まるので、クライアントに寄与すると考えていました。すなわち気功の技術化です。プログラミングに似ています。自分で手で計算するのではなく、一連の気功をパッケージ化します。そしてそれを気功技術と名づけました。

もちろん従来の伝統的な気功なりそれに類するもの(気功という言葉自体が歴史を持ちません。たとえば呪術、陰陽、魔術などをここでは指します)にも、技術化は当然あります。
経絡、丹田、チャクラ、小周天、大周天などはそこに含まれます。

しかし技術化して時間はセーブできるのですが、もっと先がある気がしました。

そこで、あるときふと技術を渡してみようと思いました。これが伝授の始まりです。
技術をコピーする、もしくはインストールすることを伝授と呼んでいます。
伝授を受けた経験は僕も多くありました。たとえばレイキのアチューンメントなどは一種の伝授です。
それまで全くできなかったことが、できるようになるわけですから、そこには何らかの情報伝達かそれに近い現象が起きています。

伝授される側から、伝授する側に移ったときに、「まといのば」では(いまでもそうですが)盛大に技術を配り始めました。
クライアントさんが、気功師の使う技術を持てば、施術所に通わなくて済みます。その結果として健康に伸びやかに踊れるのであれば、それはお互いにハッピーなことです。

技術の作成ができて、伝授ができるようになったころに、請われてヒーラー養成講座をスタートしました。当時はまだ「講座」と呼んでいました。

きわめて内輪でやっており、懇意にしているクライアントさんに声をかけて、ヒーラーになりたい人に教えていました。数回で終了するつもりでいました。
ただ誰に声をかけて良いのか(営業と思われて、お付き合いで受講されてもお互いにメリットがないので)悩み、ブログをスタートしました。

とりあえずヒーラー養成講座をすることを公知にしようとしたのです。それがブログ開設の一つの理由です(もう一つの理由は、同じ質問に同じように回答するのがいやなので、ブログで回答することで、手間を省こうとしました。不思議なもので、捻挫なら捻挫、打撲なら打撲と言った風に同じ質問が同じときに集中します)。

ヒーラー養成講座では、「まといのば」が持つ技術の全てを伝授することはしていましたが、この「伝授」するという技も伝授できないだろうかと思いました。それが「伝授の(技術の)伝授」です。「伝授の伝授」と呼んでいました。同時に遠隔気功もきちんと教えるようになっていたように記憶します。

養成講座が終了したころで70近い技術があり(当時は一つ一つ伝授していたので、講師も受講生もぐったりでした)、伝授の伝授も伝えていたので、これで「まといのば」の役割は同じかなと思っていました。

ところが、そうはいかず結果が出るヒーラーと結果が出ないヒーラーに別れました。
そのため、技術伝授などは非常に短時間で行うようにして(「全技術伝授」を編み出して)、理論や知性・教養にフォーカスするようになりました。

その一つの極値がヤヌスです。二つの顔を持つ神様です。何を象徴しているかと言えば、気功師は相矛盾した二つの顔を持つということです。そしてその顔を統合しようとしないということです。
すなわち、オカルティストの顔と、科学原理主義者としての顔を持ちます。その両極端を限界まで極めることで良いヒーラーになれます。これが中途半端であったり、ましてや統合しようとするとアウトです。中庸は大切ですが、重ねてはいけません。
科学なり教養だけを純粋に取り出したのが(取り出して基礎編だけにしたのが)寺子屋シリーズです。
オカルティストの顔を純粋に取り出したのが、気功師養成スクールです。

そして、昨日のスクールでも言いましたが、上記のメッセージになります。

再掲します。

(引用開始)


もしかしたら、「なんだ、簡単じゃないか。こんな気功技術リストなら全部トリガーを暗記してしまえばいいんだろう。そうすれば気功はみんなわかってしまう」と言うかもしれないけど、そうはいかないんです。

実際のところ、はじめのうちはかなりうまくいくかもしれない。しかし、だんだんうまくいかなくなるんです。


(引用終了)

続けると、

陰陽引用開始)

クライアントの課題をどうやって解決するか、ということを教えるのはたいへん難しい。僕自身どうやってやればよいのかじつのところ知りません。新しい状況を分析することもできないし、問題をとくこともできないような人間から、それができるような人間に君たちを変換する術をどうやって教えればいいのかなんてわかるわけがない。数学の場合には、微分法ができない人を変換するには、いろいろな公式や方法を教えればいい。しかし気功の場合には、何かができない人をできる人に変換するのは無理な相談で、どうしていいのかわかりません。

(引用終了)

繰り返しになりますが、これはある大天才の吐露のパロディです(以前は手塚治虫さんの言葉を「漫画」を「気功」に置き換えて紹介しました)。

気功の場合には、何かができない人をできる人に変換するのは無理な相談で、どうしていいのかわかりません。

もちろん「分かりません」で終わっては、何も始まりませんし、教師であることを止めないといけません。

それでは終わりません。

続けます。

(引用開始)

僕自身には気功的に何がどうなっているかが直観的にわかってしまっているので、かえって人にどう伝えたらよいのかわからない。

(引用終了)

これは、ケインズのニュートン評を思い出します。
近代科学の父と言われたニュートンを、最後の錬金術師でありオカルティストの地位に貶めたのはバレリーナを妻にもつ経済学者です(とは言え、原文はニュートンに対する深い敬意と称賛があります。全文を読まず、部分を切り取って拡大解釈する我々の性向が著者の意図を歪めます)。

ニュートンがプリンキピアを発表するに至った盟友ハレーとの会話のシーンです(ハレーは彗星として名を留めています。ちなみにニュートンは単位として)。
学部を卒業したばかりのときペストのおかげで故郷に帰り、雑事を忘れて研究に没頭できました。そこでの見つけた様々な知の世界の美しい貝殻を彼は公開することなく20年引き出しにしまっておきます(ニュートンの偉大な業績もまた20代それも前半で終わっていることも面白いと言えます)。

(引用開始)

彼(ニュートン)が天体運動のもっとも基本的な発見の一つをハレーに知らせたときの話がある。「なるほど、」とハレーは答えた、「しかしどうしてそれがわかりますか。あなたはそれを証明したのですか。」ニュートンはびっくりしたーー「なに、そんなことはもう何年も前からわかっているのです」と彼は答えた、「二三日待って下されば、きっとその証明を見つけますよ。」ーーやがて彼はいったとおりにしたのであった。
(p.318 ケインズ 「人物評伝」)


(引用終了)

「直観的にわかってしまっているので」、証明は不要なのです。ただ必要なら後付けで創れるということです。実は同じことをアルキメデスも言います。結果が分かってから証明を当てているだけだ、と。

ちなみに上記のパロディのオリジナルがファインマン(朝永博士とノーベル物理学賞を受賞)であることを考えると、このニュートンとファインマンの相似は非常に面白いかと思います。

ちなみにこの証明に対する軽視は一体何なんでしょう。

これは単純で「証明」とは表現でしかないということです。真理探求の方法ではなく、真理を開示するための言語であるということです。そしてその言語の後ろに走るのはユークリッド原論であり、公理系です。

だからこそ、ニュートンは原論を模して、プリンキピアを書き、ラッセルとホワイトヘッドは原論を模したプリンキピアを模して、公理系(その源流は「原論」)の体系を完成させた(かった)書物にプリンキピアと名付けました。

という内容がケインズの上記の文章の前にあります。
すなわちハレーとの会話はその理論のインスタンス(事例)であったということです。

その部分を引きます。

(引用開始)

純粋科学的ないしは哲学的な思考を試みたことのあるひとならだれでも知っているが、ひとはある問題をしばらくは心の中に保持して、それを洞察するのにいっさいの集中力を傾注することができるのであるが、それは次第に薄れてわからなくなり、その眺めているものがただの空白にすぎないことに気がつくのである。ニュートンは一つの問題を数時間も、数日も、数週間も、ついにそれが彼に秘密を打ち明けるまで、心の中に持ち続けることのできる人であったかとおもう。

(引用中断)

ついにそれが彼に秘密を打ち明けるまで、」というのがいいですね。
これは比喩の無生物主語構文ではなく、おそらくこのPassiveな感覚こそがケインズが我々に示してくれるSecretなのではないかと思います。
秘密は探しだすものではなく、打ち明けられるものなのです。それまでじっと待つしかないのです。計算が終わるまでは、いつ計算が終わるかは分からないのです。

続けます。

(引用再開)

それから、彼はすぐれた数学の専門家であったから、説明のためには望むとおりの表現をそれに与えることができたのであるが、しかしすぐれて非凡であったのは、彼の直観であった。ーー「彼は推測がきわめて巧みであったから、」とド・モルガンはいった、「おそらく彼がどうにかして証明することができた以上のことを知っていたようにおもわれる。」証明はそれにはそれとしての価値があるとしても、すでに述べたとおり、あとから仕上げられたものであった。ーーつまり、それは発見の手段ではなかったのである。
(p.318)
(引用終了)

一言で言えば(ケインズによれば)「彼は宇宙を全能の神によって化された暗号と見なしていた」のです(そしてこれが10期のテーマです)。

このくだりに続けて、先のハレーとの対話が始まります。


ちょっと長くなったので(読むのも大変でしょうし)、ここでおしまいにします。

続きはスクールにて(^^)
(冗談です)



ただ続きはおそらくは永遠に書かないので、ざっくりと書きたかった概要だけ述べて終わりにします。


たとえばホッブズが真理の探求について書くときに、思考と計算をあえて同じ概念で用いています(用いているように見えます)。

これはチューリングの"Can machines think?" を思い出します。「機械は考えるか?」。論文の冒頭での質問です。

I propose to consider the question, "Can machines think?" This should begin with definitions of the meaning of the terms "machine" and "think." COMPUTING MACHINERY AND INTELLIGENCE

ホッブズの引用は寺子屋の教材(哲学講座)でも使いましたが、以下のとおりです。
主著であるリヴァイアサンにこう書かれています。

(引用開始)

「真理」とは、私達が断定をおこなうに際に名称を正しく並べることである。(略)

そのため、神が人類に与え給うた唯一のサイエンスである幾何学においては言葉の意味を定めることから始める。意味を定めることを人は定義と呼び、計算の初めに置く。


(引用終了)

このささやかな引用に我々はいろいろな意味を見ます。

たとえば論理学で学んだのは、論理とは記号の並べ方の規則ということでした(「私達が断定をおこなうに際に名称を正しく並べること」)。
また唯一のサイエンスが幾何学(ユークリッド原論)と言う物言いと、流率法(微積分)を発明していながら幾何学にこだわってプリンキピアを書き上げてニュートン。
「意味を定める」という言い方。意味は(当然ですが)アプリオリに存在するのではなく「定める」という感覚です。プリンキピアでも最初に「定義」がきていました(ちなみに最初の定義は質量について。次が運動量でしたか。これは寺子屋シリーズのニュートン力学でやりましたね)。
そして「計算」と思考の相似形。

そしてファインマンのオリジナルの文章と、物理を教えることができないけど、教える方法については以下の書物を参照してください(余裕があれば、引用をブログにて紹介します)

ファインマン流物理がわかるコツ/岩波書店

¥2,940
Amazon.co.jp