祇園石段下 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

谷の槍は「道場槍だ道場槍だ」という訳で、谷の稽古を受けるものが一人も無いという位になって終った。何んか武道の話が出て、谷が一口でも入れようものなら、

「先生の御議論は毎々伺っています、それよりも一つ御腕前を実地におみせ下さいませんか」

という。谷は赤面して黙って引き下がった。

 

この谷が、祇園石段下で、何者にか斬殺されたのは、介錯失敗の一ヶ月後、即ち慶応二年四月一日のまだ夜の宵の口であった。

 

 

『新選組物語』(子母澤寛)収録の「隊士絶命記」では、新選組の谷三十郎は慶応二年(1866)四月一日の夜に祇園石段下で同志の斎藤一に斬られたとされます。もっとも、この「隊士絶命記」は多分に小説的に描かれている作品であり、その真偽に関しては大いに疑問を感じますが、その話はさておき祇園石段下です。

 

 

 

 

「祇園石段下」の「祇園」とは祇園社、つまり現在の八坂神社のことで、その石段下というのは、まさに写真の場所、石段の下ということになるのですが、実はそうとも言い切れないらしいのです。

 

 

というのも祇園石段下というのは広義には石段の周辺、つまり写真の左右(南北)を走る東大路通と、奥に伸びる四条通の丁字交差点周辺一帯をいうのだそうです。ただ、あくまで通称らしく、具体的にどこからどこまでと決まっているわけではないらしい・・・。

 

 

なので、たとえば写真の左(南)は登り坂になっているのですが、その坂の途中にあるマンションも「◯◯◯祇園石段下」という名前です。・・・いや、石段下どころか石段の上に建っている西楼門よりも高い位置にありそうなんですけどね。

 

 

 

 

ちなみに、谷三十郎の死因に関する記述は他に

 

・谷三十郎 病死。(『同志連名記』永倉新八)

・戊辰前、卒中にて急死せりと伝ふ。(『近世雑話』)

・谷三十郎、剣はすぐれしも大酒の癖あり。(同)

・非常な酒豪で中毒の傾向があり、前年卒中で急死したことになっている。(『周平一代』)

 

などがあるそうです(参照『新選組銘々伝』収録「谷三十郎」藤堂利寿)が、写真正面は説明するまでもない祇園の町並み、更に東大路通の南(写真左側)の坂を上れば、そこは上弁天町の花街であり、上弁天町を入ってその奥には下河原町の花街があります。つまりこのあたりは京都を代表する 〝夜の繁華街〟 だったわけで、このあたりをはしごしていたとしたら酔いつぶれてポックリいくのも納得出来る話かも知れません。あるいは千鳥足でフラフラ歩いていたところをバッサリやられたら、さすがの谷三十郎も・・・ということでしょうか。