京都見廻組 中川登代蔵(7) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

私立独逸学校(現在の京都薬科大学)を設立するなど、理化学の分野で着々と実績を積み重ねていった中川登代蔵改め重麗ですが、大きな転機が訪れます。学校設立の翌年、明治十八年(1885)に中川は東京大学予備門(のちの旧制一高。現在の東大教養学部)教諭に任じられ東京へと赴任することになるのです。

 

 

東京大学予備門は翌明治十九年(1886)三月に帝国大学令によって廃止され、第一高等中学校になるのですが、それからわずか三ヶ月後の六月、中川は突然教諭を辞職してしまいます。辞職の理由についてはっきりしたことはわかりませんが、のちに本人は「東京の水が合わなかった」と述懐しているようです(『子規時代の人々』亀田小蛄)。

 

 

八月には大阪に至り、通俗学芸社を設立。学術雑誌を発行しますが、経営はうまく行かなかったらしく、わずか一年で廃業してしまいます。そして再び東京に赴いた中川は日本新聞社に入社。理化学の道を捨ててジャーナリズムの世界へ身を投じます。日本新聞社には明治二十三年まで在籍し、その後は京都に帰って京都中外電報(のちの京都日出新聞社)に入社、時事諷刺や狂言、小説の執筆など、記者というよりは文筆家として健筆をふるいました。あるいは誌面の充実を図るためにヘッドハンティングされたのかも知れません。

 

 

ちなみに正岡子規は中川が東大予備門~第一高等中学校教諭時代に生徒として在学しており、日本新聞社には中川退社後の明治二十五年(1892)に入社しているなど浅からぬ縁を感じます。そして子規は中川の後半生に大きな影響を与えることになるのです。

 

 

※.正岡子規と中川重麗(登代蔵)