望月亀弥太(10)池田屋事件 | またしちのブログ

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元治元年(1864)六月五日の夜、京都の三条小橋西詰北側の旅籠屋・池田屋に望月亀弥太をはじめとする浪士たちが集まっていました。そして亥の刻(午後十時)頃、そこに近藤勇率いる新選組が踏み込み激しい戦闘となります。世に名高い池田屋事件です。

 

 

 

 

先に結論を言ってしまえば、亀弥太は池田屋からの脱出には成功するものの、その夜のうちに河原町二条下ルの長州藩邸付近で自ら命を絶ちます。ではその間、望月亀弥太はいかに戦ったのでしょうか。たとえば『贈位諸賢伝 二』(田尻佐 編/明治十六年)では「囲いを衝いて奮戦、数人を倒し力尽きて角倉の近傍に遁れ、自刃して死す。年二十七」とあり、池田屋を脱出し包囲する兵士と戦い数人を倒したあと、長州藩邸の北側にあった角倉屋敷のあたりまで遁れたあと自刃したとしています。

 

 

また『近世偉人伝:立志佳談』(千葉茂樹/明治三十三年)にも同様に「数人を斃す」とあることから、亀弥太が池田屋を脱出したあとの戦闘で数人を斬ったという話が、当時を知る人々の間に語り継がれていたのではないかと思われますが、更に時代が下ると、たとえば大正期に作成された本人の贈位内申書では

 

 

時に(望月)義澄、同志四五名と楼上に在り、これを見るや義澄すぐに刀を執り、進んで一人を倒し、躍って楼下に降り敵数名と奮闘し、たちまち二人を斬り、走って戸外に出づ。敵数名追及す。また撃って二三名を傷く。

 

 

として、池田屋内で数名と斬り合い、二階で一人、階下で二人を斬って屋外に出て、更に追ってきた敵二、三名を斬って負傷させたことになっています。これが本当だとすると、二階にいた近藤勇と沖田総司のうちの一人と、一階にいた永倉新八と藤堂平助の両人を亀弥太が一人で斬ったことになってしまいます。

 

 

更に昭和に入ると『坂本龍馬海援隊始末』(別名『海援隊始末記』平尾道雄/昭和四年)に

 

 

この騒動において望月亀弥太の闘いぶりは伝えられるところによると、危険迫るとみると渾身の勇をふるい白刃をくぐり抜け階下に飛び降りた。だが、路上は蟻のはい出るすきもないという警戒網である。

 

 

と、新選組研究家としても知られる平尾だけに屋内の戦いにおける〝キルカウント〟をなかったものにした一方で

 

 

たちまち会津藩士に見とがめられたため、彼はやにわに提灯を持った敵の一人の腕を切り落とし、二の太刀で今一人の面体を割りつけた。前者は大柳俊八であり、彼はすぐに隣の針屋へかけこんだがまもなく絶命し、後者は五十嵐虎之助で、負傷後、河原町の下宿で治療につとめたが、彼も助からなかった。大柳・五十嵐はともに江戸において臨時に会津藩へ召し抱えられた武芸者十五人の内の者であった。

 

 

と、亀弥太が屋外で戦い、斬ったのは会津藩に臨時に召し抱えられた武芸者の大柳俊八と五十嵐虎之助の二人だと特定しています。