望月亀弥太(9)北地策を疑う | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

坂本龍馬らと共に蝦夷地開拓の「北地策」を計画していたはずの望月亀弥太は、なぜか古高俊太郎が新選組に逮捕されて急遽集まることになった池田屋の会合に参加していました。

 

 

彼ら、いわゆる長州系浪士たちの本来の目的は京都・大坂に潜伏させていた浪士を一斉蜂起させ、京都市中に放火して親幕派の中川宮や京都守護職の松平容保を討ち取り、更には御所に乱入し孝明天皇を長州に連れ去るものだったといわれています。

 

 

ただし、孝明天皇拉致に関しては浪士側(長州側)の史料に特に言及されていないのですが、仮に孝明天皇拉致計画が実際にあったとして、孝明帝を長州まで乗せて行けるような船を用意するべく動いていたのは、実は「北地策」の中心人物であった坂本龍馬しかいなかったわけで、実は二つの計画は連動していたのではないかと考えてみました。

 

 

そうして疑いの目で見ていくと、「北地策」には怪しいところがあります。江戸の勝海舟を尋ねた龍馬は「北地策」のために幕府の船を貸してほしいと勝に頼み込むのですが、その際に

 

 

京摂の過激二百人程、蝦夷(の)開発通商、国の為奮発す。この輩ことごとく黒龍丸にて乗り廻すべく、この議、御所並び水泉公(水野和泉守忠精。老中)も御承知なり。且つ入費三四千両同志の者、所々より取り集めたり。遂にこの策施すべしと云う。士気甚だ盛んなり(『勝海舟日記抄』)。

 

 

と言ったと勝は書き留めています。この龍馬の言葉はろくに検証されないまま事実であるかのうように流布されているように思いますが、一方で武装蜂起計画が着々と進行している中で、龍馬本人が「過激」と言っている二百人もの浪士たちが、ただ蝦夷地を開拓するためだけの計画に果たして同意するでしょうか。更にいえば、当時は後ろ盾のない、ほとんど無名の脱藩浪士に過ぎなかった龍馬や亀弥太らが三千両から四千両もの大金を、いったいどうやって集めることが出来たのでしょう。

 

 

おそらく「北地策」にも後ろ盾となる大きな力があったのではないでしょうか。ではそれはどこかと言われたら、やっぱりそれは長州しかないと思います。たとえば、「北地策」組が勝海舟をたぶらかして幕府の軍船を借り受け、その船で武装蜂起を成功させ孝明帝を拉致した一団を大阪湾から長州まで運ぶ。そして帝や蜂起組を降ろしたあとで「北地策」組はそのまま蝦夷に向かう・・・。そういう形での協力なら十分にあり得るのではないかと思いますが、いかがでしょう。

 

 

そして、そう考えると望月亀弥太もまた孝明天皇拉致を含めた武装蜂起計画に、おそらくはパイプ役のような形で深く大きく関わっていたと考えるべきなのだろうと思われます。