池田屋について少し | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

池田屋事件のことを調べ直しています。が、難航しております。突き詰めて考えると、池田屋は本当に今石碑が建っている場所にあったのか、これに関しては中村武生先生も『池田屋事件の研究』の中で疑問を呈しておられます。

 

 

そこで、昔の地図などを見れば何かヒントがあるんじゃないかと思ったんですが、三条小橋西側の三条通周辺は中島町というのですが、その中島町の番地割りが非常に複雑で、おそらく過去に土地の売買だとか譲ったりもらったり、或いは合わせたり分けたりとか、色々あったんだろうと思わせます。実際、地図によって番地が異なっている場合があるようです。

 

 

更に三条小橋西詰はいわば「宿屋街」だったので、京都の旅案内のような書物に旅籠屋の並びが紹介されている例がいくつかあるのですが、どれひとつ一致していません。それこそ池田屋の位置が東から7軒目とするものもあれば、6軒目だったり4軒目だったりするものもあります。

 

 

それともうひとつの疑問が、池田屋は裏通り(北側)に面していたのかという点。この点に関しては、やはり『池田屋事件の研究』の中で「北側の道路に接した土地は、中島町八二番地ではなく、恵比須町四四五-一である(この二つの地割が池田屋跡の敷地とされる)。が、前掲の古地図や旧土地台帳(京都地方法務局所蔵)を検討したところ、近年までこの二つの地割が同一所有者となったことはなかった」と中村先生は指摘しておられます。

 

 

実際、池田屋の建物は奥行き十五間(約29.6m)だったといわれていますが、調べたところ三条通と裏通りとの間隔が約60mほどあるので、中島町82番地の敷地だけでも池田屋はすっぽり収まってしまうようです。

 

 

が、池田屋事件の際にはかなりの浪士たちが脱出に成功しているという事実もあり、裏から逃げられたんじゃないかという疑問が生じます。まあ、これは憶測でしかありませんが、たとえば裏の土地を所有者から借り上げて裏庭として使っていたというのも、ひとつの可能性として上げることは出来るかなという気がします。まあ、わざわざ土地を借りておいて庭として利用することが現実的かどうかという問題はもちろんあるのですが。

 

 

まあ、もう少し気合を入れて頑張って、またいずれ記事に出来ればと思います。それと最後にもうひとつ。池田屋のあった82番地と隣の建物の間に狭い露地があって、その突き当りに地蔵堂が立っていたという言い伝えがあるようです。が、『昭和2年頃京都市明細図』を見ると、狭い路地があるのは隣の建物(現在の明治屋)の西側になっています。この点も池田屋側にも露地があったのか、それとも言い伝えが間違っていたのか、謎が残るところです。

 

 

※.三条中島町(青枠内)の地割(『昭和2年頃京都市明細図』より模写)。赤色(82番地)が池田屋のあった場所。上部が東になります。