斎藤一と吉田道場 (2)聖徳太子流吉田勝美 | またしちのブログ

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江戸小石川関口で旗本を殺害してしまった斎藤一が、京都で身を寄せていたという剣道場主吉田某なる人物について、赤間倭子先生は著書『新選組・斎藤一の謎』の中で、吉田山という所で聖徳太子流の道場を経営していて、のちに信州へ移住した「吉田勝美という人物ではなかろうかという説」を紹介しています。

 

 

その吉田勝美に関して、作家で自らも無外流居合道の有段者だった戸部新十郎先生は『明治剣客伝』の中で以下のように記しています。

 

 

ところで、京都の“太子流“吉田某とは、“聖徳太子流”として第一回(明治二十八年)の精錬証を受けた吉田勝美その人かと推定される。

 

 

この「第一回」というのは、大日本武徳会の成立を記念して明治二十八年(1895)十月二十五日に開催された武術大会「武徳祭」のことで、『皇国剣道史』(小沢愛次郎著/昭和19年)によれば、「剣法は六ヶ所に分かれ、一ヶ所五十人内外、全部で百六十組の試合」を行なったといいますから、全部で320人が参加したことになります。

 

 

そのうち、「十五人の戦勝者」(同書)が選ばれて大日本武徳会総裁小松宮殿下より精錬証書を賜ったというのですが、その十五人というのが

 

 

萩原太郎(直心影流)

根岸信五郎(神道無念流)

間宮鐵太郎(小野派一刀流)

吉田勝見(聖徳太子流)

高山峰三郎(直心影流)

松崎浪四郎(神陰流)

香川善次郎(無刀流)

阿部守衛(直心影流)

原不二夫(天自流)

梅崎弥一郎(神陰流)

小南易知(無刀流)

三橋鑑一郎(武蔵流)

石山孫六(一刀流)

得能関四郎(直心影流)

奥村左近太(直心影流)

 

 

という顔ぶれになっています。それぞれの流派は戸部先生の『明治剣客伝』を参照にしました。これが元になったのか、ウィキペディアをはじめネット上では第一回武徳祭において精錬証書を賜った吉田勝美が、京都で聖徳太子流の道場を開いていたその人だという話がたくさん出てきて、斎藤一が師範代だったという話をふくめて、あたかもそれが事実であるかのように書かれているものもあるようです。

 

 

しかし、斎藤一が京都の吉田道場に身を寄せたのが十九歳の時のことですから文久二年(1862)ということになるので、第一回武徳祭が開催された明治二十八年(1895)は、それから33年も経っていることになります。

 

 

仮に文久二年当時に三十歳そこそこの若先生だったとしても、確実に六十歳を越えていたことになりますが、160組320名の中を勝ち上がって「ベスト15」に入るには少々とうが立っているような気もします。そこでこの15人の生年を調べてみたところ、判明したのが根岸、高山、松崎、香川、阿部、梅崎、三橋、石山、得能、奥村の10人で、最年長は石山孫六で文政十一年(1828)生まれの六十八歳、次が松崎浪四郎で天保四年(1833)生まれの六十三歳ということになります。

 

 

つまり「十五人の戦勝者」の中に六十代が二人もいたわけで、そうなると、吉田勝見が六十代だったとしても不思議ではなく、同一人物というのもじゅうぶんアリということになりますが、実は『剣道家写真名鑑』(剣道家写真名鑑刊行会/大正13年。著作権保護期間満了)にこの第一回武徳祭の精錬証書を受けた15名の写真が掲載されていました。

 

 

下の写真がそうなのですが、後列の向かって右端にいるのが吉田勝見です。一方、六十歳すぎの二人はそれぞれ前後列の真ん中に立っているのですが、どうも吉田とはだいぶ年齢差があるように見えます。

 

 

※.『剣術家写真名鑑』より第一回大日本武徳会精錬証受賞者。

 

 

 

※.吉田勝見

 

 

あくまで僕個人の主観ですが、昔の人の老け顔というのも加味して、四十代後半から五十歳そこそこぐらいに見えるのですが、いかがでしょうか。少なくとも石山孫六や松崎浪四郎よりは一世代下の人のように見えます。

 

 

ちなみに、その『剣道家写真名鑑』や『皇国剣道史』などでは、いずれも「吉田勝見」と表記されています。「勝美」と「勝見」はどちらも「かつみ」と読めますが、「勝美」は「かつよし」と読む場合もあるので、親子など別人の可能性も考えるべきかと思われます。

 

 

また、武徳祭で精錬証書を得た吉田勝見が「長野県在住」「聖徳太子流」だというのは、戸部先生の記述以外には残念ながら確認出来ませんでした。『明治剣客伝』は小説というより伝記というべき内容なので、事実関係に関しては創作は入っていないとは思いますが、赤間先生の「そういう説もある」という話をそのまま引用したという可能性も否定は出来ないと思います。

 

 

ということで、斎藤一が身を寄せた「吉田道場」が聖徳太子流の吉田勝美の道場であったという説は、否定は出来ないものの、あくまでも可能性のひとつにすぎないと考えるべきだと思われます。

 

 

というわけで、次回からは他の可能性を考えてみたいと思います。