大鳥圭介の『幕末実戦史』に出てくる、大鳥や榎本武揚らを取り調べた小栗なる人物が小泉則忠のことだとしたら、江戸の出身でありながら新政府軍に加わったということになります。しかも、敵の首脳陣の取り調べに当たったわけですから、赤報隊のような草莽の部隊ではなく、新政府軍の中で、ある程度の立場にあったということになります。
※.『幕末実戦史』(国会図書館デジタルコレクションより)
江戸の人であれば幕臣であったか、あるいは浪士だとしても佐幕派だったと考えるのが妥当だと思われますが、だとすれば戊辰戦争中に新政府軍、つまりは倒幕軍に寝返ったということになるのかも知れません。が、これに関してはひとつの可能性を指摘したいと思います。それは帰正隊です。
新政府軍とは言うものの、薩長土肥を中心とした西国諸藩の寄せ集めに過ぎなかった倒幕軍は、その中軸となるべき政府直轄部隊を編成する必要に迫られました。そこで白羽の矢が立ったのは、他ならぬ旧幕府軍だったのです。
維新政府直轄部隊
第一大隊・第二大隊
十津川兵・浪士隊など(うち十津川兵450)
第三大隊・第四大隊
旧幕府歩兵(1200)
第五大隊
旧田安兵(兵数不詳)
第六大隊
旧一橋兵(兵数不詳)
第一遊軍隊
旧徴兵七番隊(186)=旧赤報隊
第二遊軍隊
旧黒谷浪士隊(兵数不詳)
第三遊軍隊
越後諸隊(北辰隊・金革隊・居之隊)(520)
~『明治維新と陸軍創設』(淺川道夫/錦正社)参照
この一覧は箱館戦争終結後のものではありますが、このうち第三・第四大隊の幕府歩兵とは江戸開城に際して維新政府の管下に編入された伝習歩兵隊第三大隊のことです。伝習隊といえば江戸を脱走した第一・第二大隊が有名ですが、第三大隊は江戸に残り新政府軍に編入されたのでした。
その第三大隊のうち二個中隊が選抜されて東北から蝦夷を転戦し、かつての同志であった箱館軍とも戦いました。新政府軍はこの隊に「帰正隊」の名を与えたのですが、考えようによっては薩長土に味方したから「帰正隊=正義に帰した隊」という、なんとも屈辱的な名前を与えられたものといえます。
この帰正隊は裏切り者だとして戦後だいぶ非難を浴びたようです。いや、主君である徳川慶喜が新政府に恭順の意を示して謹慎していたのですから、実際に裏切ったのは(厳密に言えば)榎本武揚ら脱走軍の方なのでしょうが、江戸っ子の人情としては最後まで戦い抜いて意地を見せた脱走軍に人気が集まるのに反比例して、薩長土に味方した帰正隊への批判が集まってしまったのでしょう。
そのため、帰正隊に参加した兵士たちは、戦後もその事実をひた隠しにしていたようで、帰正隊に関する内部史料というのは、ほぼ残っていないようです。思うのですが、小泉則忠や矢島昌郁は、この帰正隊の兵士であったのではないでしょうか。無論、それは自分の意思ではなく、上からの命令によって昨日の敵に味方し、昨日までの同志と戦わざるを得なかったという思い出したくもない辛い経験であったことでしょう。