前回、警視庁の剣術の等級についてお話しましたが、今回は撃剣世話掛についての話です。
明治十年(1877)の西南戦争における抜刀隊の活躍で、実戦における剣術の有効性が再認識されると、川路利良大警視は『撃剣再興論』を著し、警察官に撃剣(剣術)や柔術など日本の武術を必須項目として学ばせることにしました。
これにより、当時剣術界の大家であった直心影流・榊原鍵吉が警視庁に招聘され、榊原の審査によって剣術の指導者が選ばれました。この指導者が撃剣世話掛です。やがて警察官の数が増員されるにつれ撃剣世話掛の人数も増え、更に補佐役として助教の職も設けられました。
※.榊原鍵吉(ウィキペディアより転載)
そんな撃剣世話掛の一人であった高橋赳太郎(たかはし きゅうたろう。元姫路藩剣術指南役高橋哲夫の長男。無外流)の功績をまとめた『剣道範士高橋先生八十年史』(凌霜剣友会)によると、藤田五郎と試合で対戦した三人の警察官、富山圓、小泉則忠、渡邊豊はいずれも撃剣世話掛もしくは助教であったようです。
裏を返せば、藤田五郎の実力も指導者と対戦するに足るものと評価されていたことになるでしょう。
余談ながら、当時の撃剣世話掛というのは、朝の朝礼が終わると、あとは担当エリアの警察署を廻り、道場に待機して指導を仰ぐ警察官が来るのを待つのが日課だったそうで、警察官としての公務に就くことはなかったようです。
また、藤田五郎と対戦した三人のうち、富山圓については『大正武道家名鑑』(村上晋/平安考古会/大正十年)に詳しい経歴が載っており、それによると富山は嘉永四年(1851)生まれで、藤田五郎の七歳下ということになります。播州龍野藩剣術指南役富山斉(直心影流)の次男として生まれ、のち江戸に出て西尾源左衛門(直心影流長沼派)、斎藤弥九郎(神道無念流)、桃井春蔵(鏡心明智流)などの門に学び大いに腕を上げたといいます。
明治十年より東京向島巡査屯所で剣術を教え、同十五年から十八年までは北海道に渡り、空知集治監、函館警察署などで剣術教師をつとめました。明治二十六年に兵庫県伊丹町に招かれて修道館を設立し後進の指導にあたり、大正三年には大日本武徳会の範士となっています。
渡邊豊に関しては、残念ながら情報は得られませんでした。では、明治十八年十月十四日の弥生社武術大会で藤田と対戦した小泉則忠は果たしてどんな人物だったのでしょう。