南禅寺 天授庵 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

京都東山の名刹・南禅寺の三門の右(南)隣に塔頭・天授庵があります。

 

 

 

 

パンフレットによると、「天授庵は南禅寺開山第一世大明国師無関普門(だいみんこくし・むかんふもん)禅師を奉祀する南禅寺の開山塔であり、山内でもっとも由緒ある寺院」なんだそうです。延元四年(1339)に南禅寺第十五世虎関師錬(こかんしれん)によって創建されました。

 

 

その後、文安四年(1447)に南禅寺の大火に類焼し、再建する間もなく応仁の乱の戦火に見舞われて、その後130年あまりの間、復興もままならないまま荒廃していました。

 

 

 

 

救いの手が差し伸べられたのが関ヶ原の戦いの二年後の慶長七年(1602)のこと。当時天授庵主であった霊圭は、この年筑前小倉藩主となった細川忠興の実母にして、歌人・茶人としても世に名高い細川幽斎の正室・光寿院の親族であったことから、天授庵の復興を幽斎に懇願します。

 

 

※.天授庵正門

 

 

幽斎はこれを快諾し、本堂及び正門(現存)など諸堂を建設して往時の面目を復したのでした。

 

 

※.天授庵本堂

 

 

※.細川九曜の家紋が入った竜吐水(江戸時代の放水ポンプ)らしきもの。

 

 

そうした縁もあって、天授庵は細川家の墓所となった他、幕末期には肥後細川藩の宿舎としても利用されました。

 

 

 

そんな由緒ある天授庵ですが、平日の午前中ということもあって、ほぼ貸切状態でした。ちなみに拝観料は500円です。

 

 

※.本堂内部(現在は入室出来ません)

 

 

本堂に上がることが出来ませんでしたが、長谷川等伯筆の襖絵や細川家歴代の位牌所などがあるそうです。ひょっとしたら期間限定で特別公開したりするのかな?。位牌所はさすがに恐れ多いですが、長谷川等伯の襖絵は見てみたい。

 

 

庭園は本堂前庭(東庭)と書院南庭に分かれており、決して大きくはありませんが、品のある和風庭園です。

 

 

本堂前庭は創建時に設計されたもので、幽斎没後にその墓所に向かうために石畳が加えられたのだそうです。

 

※.本堂前庭(東庭)

 

 

 

 

ちなみに、パンフレット等には書かれていませんが、この縁側、実は上がってもいいんだそう。ただし室内に入ってはいけません。縁側に上がる時はもちろん靴は脱ぐこと。でも、いくら上がっていいとわかっていても、勝手に上がるのはチョッと勇気がいります。・・・僕はビビリなので上がれませんでした(笑)。

 

 

天授庵を含む南禅寺は紅葉の名所であり、秋にはこの東庭全体が紅葉の紅色に包まれるみたいです。

 

 

一方、南庭は鎌倉末期から南北朝時代の特色を持っているそうです。

 

 

 

が、石橋など、一部は明治時代になって手を加えられているものなんだとか。

 

 

 

 

 

 

ちなみに、天然記念物のなんとかアオガエルとかいうのが、この池で産卵するらしいのですが、なにアオガエルだったかな・・・。

 

 

さて、実は天授庵には縁側に上がれる他にもうひとつ、パンフレットには紹介されていない秘密があります。

 

 

それは、隣接する墓所に入れること。墓所の入り口は閉められているし、入り口の前に柵も設けられているので、どう見ても入ってはいけなさそうなのですが、中で清掃などの作業をされている方に「墓参りがしたい」などとお願いすれば入れてくれるんだそうです。

 

 

僕の場合、「横井小楠の墓があると聞いたのですが、どこにあるんですか?」と聞いてみたら、墓所の中だといって、わざわざ案内していただきました。

 

 

墓所には細川幽斎と光寿院夫妻の墓をはじめとした細川家墓所もありましたが、ここはさすがに立入禁止でした。

 

※.細川家墓所

 

 

そして、横井小楠の墓。周りにはご子孫の墓らしきものもあったので、カットしました。

 

※.横井小楠の墓(沼山は小楠の号)

 

 

横井小楠は幕末の儒学者で肥後藩士。積極的な開国政策で国力の増強を目指すことを唱え、福井藩に招かれて松平春嶽の政治顧問となりました。水戸藩の藤田東湖や長州の吉田松陰、幕臣の川路聖謨らと親交を結び、その影響を受けた人物は同藩の徳富一敬(蘇峰・蘆花兄弟の父)をはじめ、坂本龍馬、由利公正、井上毅、元田永孚など枚挙にいとまがありません。

 

しかし、明治2年1月5日、御所参内の帰り道、寺町通丸太町下ルにおいて十津川郷士の襲撃を受け暗殺されてしまいました。暗殺の理由は小楠が日本をキリスト教化しようとしているという、根も葉もないデマであったとされます。

 

 

予備知識がまったくなかったので驚きましたが、その横井小楠の墓の目の前に、同じく幕末期に活躍した漢詩人梁川星巌とその妻紅蘭の墓がありました。

 

※.梁川星巌(向かって右)と妻・紅蘭の墓

 

 

梁川星巌は橋本左内や梅田雲浜、吉田松陰らと交流があったため、安政の大獄では捕縛対象となりましたが、逮捕される直前にコレラにかかって急死してしまいました。その安政の大獄を主導した幕府老中・間部詮勝もまた星巌の弟子であったといいます。

 

 

考えてみたのですが、そもそも墓所は「拝観」コースには入っていないので、観光シーズンなど人が多い時は頼んでも入れてもらえないかも知れません。いや、たぶんダメだと思う。墓地に人がごった返しても困るでしょうからね。