渡邊昇談話を読む(11) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

さて、事実と認めるには大いに疑問が残る渡邊昇の談話なのですが、だからといって全くの嘘っぱちなのかというと、おそらくそうではないと思います。明治の末期になって「新聞に掲載されますので、閣下の若かりし頃の武勇伝をぜひお聞かせ下さい」と取材を申し込まれたのでしょう。

 

激動の時代を生き抜き、政界で成功を収め爵位まで得て、望みうるかぎりの地位と栄誉を得て、「我が世の春」ならぬ「我が世の晩秋」を謳歌していたのだから、どうしても話に尾ひれがつくのはやむを得ないことでしょう。あるいはいくつかの事実の中から公表出来る話、公表出来る部分だけをつなぎ合わせて武勇伝にまとめたのかも知れません。いずれにせよ、まったくの作り話ではなく、ある程度の事実が含まれているのだと思われます。そこでもう一度、「子爵渡邊昇氏談」を振り返ってみると面白い事実は浮かび上がってきました。

 

 

ある日、渡邊昇は寺町通今出川下ルの大久保一蔵(利通)邸を訪ねました。大久保邸には坂本龍馬と中岡慎太郎が居合わせており、二人は渡邊を見るなり「君は危険だぞ、用心しろ。早く京都を去って大村に帰るがよかろう」と忠告しました。その後、酒を酌み交わし、したたか酔った渡邊が大久保邸を去ったのは夕暮れ時のことでした。ちなみに大久保利通邸のあった寺町通今出川下ルは、御所の東北の角に当たります。

 

渡邊は、本人曰く「酔歩蹣跚(すいほまんさん)」つまり千鳥足でふらふらと歩きながら岡山藩邸の隣りにあったという下宿へと向かいました。岡山藩邸は猪熊通中立売上ルにあり、御所の西側で、中立売御門からまっすぐ西に徒歩10分ほど行ったところにありました。

 

しかし、下宿にたどり着く前に “上から下へかけて黒色づくめ、衣服も黒ければ傘も黒く、一見新選組の者であるのが知れる” 曲者二人に尾行されているのに気づき、途中にあった “知り合い” の袴屋に立ち寄り、水を飲んでいると、その二人が入って来て「今入った男はお前の家に泊まっておるのか」などと怒鳴りたてました。渡邊は敢えて出て行って、二人の間を抜けて外に出ました。

 

そして、そのまま下宿に帰るのも面白くないと、北野天神へと向かいました。追ってくるかと北野天神で待ち伏せしていましたが、結局、曲者はやって来なかったので、門前の上七軒の楼に同宿の和田祐馬を呼び寄せて再び酒を飲みました。

 

和田祐馬からも大村に帰るよう再び言われ、島原にいる兄の清左衛門に相談するよう勧められた渡邊は、店を出て和田と二人で島原へと向かいました。

 

その途中、二条城の前を通った時に、不意に背後から「渡邊っ」と大喝された渡邊は、とっさに腰の愛刀関兼岸を引き抜くと、相手も斬り込んできて数合打ち合いました。そしてエイッと刀を薙ぐと相手は逃げ出しました。

 

その後、島原で兄の清左衛門と会って三度酒宴となり、やはり大村に帰るがよかろうと兄からも勧められた渡邊でしたが、酔興のまま自分の刀を検めてみると、切っ先に血糊が浮いていました。それで確認のために再び現場に戻ってみると、大勢の人だかりの中、先程の黒装束の曲者が倒れていたのです。つまり、渡邊昇はこの時、新選組隊士を一人斬殺したということになります。

 

以上が渡邊昇の談話の概要なのですが、「文久二年京都細見図」を元に位置関係を示したのが下の図になります。

 

①.大久保邸(寺町通今出川下ル)

②.岡山藩邸(猪熊通中立売上ル)

③.上七軒

④.二条城前(堀川通)

 

島原は更に南になりますが、今回は割愛させてもらいます。

 

 

 

 

これらの位置関係を参考に考えてみると興味深い事実が浮かんでくるのですが、それはまた次回に。