渡邊昇談話を読む(8) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

江戸での剣術修行を終えた渡邊昇は、文久三年(1863)三月に大村に帰藩します。練兵館で尊王攘夷思想に強い影響を受けた昇は、帰国後、兄の清左衛門(藩校五教館頭取)らと共に尊王攘夷のグループを結成します。この党は最終的に三十七名の同志を集めたことから大村三十七士同盟と呼ばれました。三十七士同盟は俗に大村勤皇党とも呼ばれているようです。

 

盟主には城代家老の針尾九左衛門を擁立し、ブレーンとして、若くして五教館の教授となっていた松林廉之助(飯山)を迎えました。大村藩では藩士が徒党を組むことを厳しく禁止していましたが、針尾と松林は藩主大村純熈の覚えめでたい人物であったため、大村勤皇党はむしろ純熈に歓迎されたようです。

 

その松林飯山は天保十年(1839)生まれで昇よりひとつ年下でしたが、年少時より神童の呼び声高く、十二歳の時には藩主大村純熈に唐詩選を講釈してみせたといいます。十三歳で江戸に遊学し安積艮斎(あさか ごんさい)に入門、まもなく塾生の主席となり、更には幕府の学問所である昌平黌に入学し、ほどなく助教に任命されています。

 

※.松林飯山(画像はお借りしました)

 

 

元治元年(1864)十月五日の夜、藩の元締役富永快左衛門が自宅で就寝中、二人組の刺客に襲われ殺害されました。快左衛門の妻は幸い難を逃れ、物陰に隠れて惨事の一部始終を見ていましたが、二人の刺客の「あれも殺すか」「いや、女はやらんでよか」と話す声と、大柄な体格に人一倍長い刀から、刺客の一人は渡邊昇であると確信しました。

 

殺害された富永快左衛門は大村勤皇党と対立していた家老浅田弥次右衛門の実の弟でした。そのため浅田らは渡邊昇らを捕らえて罰するよう藩主大村純熈に訴えますが、純熈は言を左右にして取り合いませんでした。純熈の信頼厚い針尾九左衛門や松林飯山を同志に加えたことが功を奏したと言って良いでしょう。

 

そして翌月の十一月二十七日、昇は家老江頭隼之助の従士の一人として上洛します。この時はわずか三日の滞在でした。そしてその帰り路のこと、伏見の舟屋が幕府の禁令が出ているからと言って、大坂行きの舟を出すことを拒否するということがありましたが、昇は「あとで役人に叱られるのと、今ここで俺に斬られるのと、お前はどちらを選ぶか」と舟屋の主人を恫喝して、無理矢理舟を出させたといいます。