新選組 奴茶屋事件(1) | またしちのブログ

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慶応元年八月八日のこと。洛東蹴上村の奴茶屋に薩摩藩の橋口四郎、隈本壮助の二人がやって来て主人を恫喝し、金を要求します。

 

困り果てた奴茶屋の主人は新選組に通報し、武田観柳斎率いる一隊が出動しました。たちまち戦闘になり、橋口四郎は斬られて即死。隈本壮助は重症を負って西本願寺の屯所に連行され、尋問を受けたのちに釈放されて二本松の薩摩藩邸に引き取られたとされます。

 

 

(蹴上のつもりで撮ったんですが、実際はもっと先。画面奥の青看板の周辺が、かつての蹴上村になるようです。画面右はウェスティン都ホテル京都)

 

 

この事件は西村兼文が『新選組始末記』(別名壬生浪士始末記)に書き表したもので、いわく

 

同(慶応元年)八月八日、洛東蹴上村奴茶屋へ薩藩橋口四郎、隈本壮助押し入りて金調を計るに強談す。

亭主困却のあまり壬生の陣営に訴え出る。乃ち武田観柳を長として六、七名、奴茶屋へ出張す。

元来気速の薩藩、新撰組と見るや一言の応接にも及ばず、たちまち両人とも抜刀して斬ってかかる。

六名の隊士、心得たりと渡り合い、切り結びたるが、寡は衆に敵しがたく、橋口は戦に討たれ即死す。隈本は深手を負いて生け捕られ、観柳はこの時刀を打ち折りたり。

やがて本陣へ連れ帰り、一応尋問の上、二本松薩邸に送る。

 

 

この事件、現在までのところ、この『始末記』で西村兼文が紹介したのみで、他に情報がない事から、西村の創作の可能性もあります。

 

そのためか、事実関係の検証がほとんどされていないようなのですが、否定して、そのまま放置してしまうよりも、事実だと考えてみたら何か見えてくるものがあるんじゃないかと思い、僕なりに検証してみる事にしました。

 

そもそも奴茶屋といえば、かつてこのブログでも紹介しましたが、蹴上村ではなく山科にあった茶屋です。あるいは蹴上に支店のようなものがあったのかも知れませんが、ひょっとしたら実際に事件が起こったのは山科だったかも知れない。

 

などと色々考えてみるうちに、おぼろげながら色々と見えてきたような気がします。

 

 

 

余談になりますが、奴茶屋の読みは正しくはそのまま「やっこちゃや」ですが、親しみを込めて「やっちゃや」と呼ばれていたようです。

 

 

 

 

ごめんなさい

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