花屋の平助(3) | またしちのブログ

またしちのブログ

幕末史などつれづれに…

さて、『維新階梯雑誌』に関しても、そろそろ言っておいた方が良さそうです。

 

これまで述べてきたとおり、藤堂平助の出自に関しては永倉新八の『同志連名記』などに「藤堂和泉守落胤」とあったり、『京師騒動見聞雑記録』にも「藤堂和泉守の落胤にて壬生組に入り候由」とある事などから、伊勢・津藩第十一代当主・藤堂高猷の落胤である可能性が指摘されてきました。

 

しかし、ある意味「普通はあり得ない話」でもあるので、おそらく本人がそう触れ回っていただけなのではないか、というのが定説化していたわけです。

 

そこへ近年になって『維新階梯雑誌』という史料が出て来て、そこに新選組隊士の名簿があり

 

「江戸 平之丞妾腹 惣領ノ由 藤堂平助 十九歳」

 

という具体的な記述があった事から、湯島に屋敷があった旗本五千石・藤堂秉之丞(へいのじょう)の庶長子だったのではないか、とする説が有力になってきているのです。

 

ちゃんとした史料にあるのだから信用出来る話しなのでは、というのはたしかに正論なのですが、会津藩に提出した “ちゃんとした” 文書に「明石浪人」とウソを書かざるを得なかった斎藤一の例もあるわけで・・・。

 

ましてや、これまで書いてきたとおり、もしも高猷公が花屋の女将に産ませた “不貞の子” 

だったとしたら、いくら平助本人が素直に事実関係を話したとしても、それをそのまま記録するべきかどうかは相当迷うところだと思います。

 

仮にこの名簿が会津藩が作成したもの(あるいはその為の下書き)だったとして、おそらくは外に出すものではなかったのでしょうが、万が一、何年か経って外に出てしまい藤堂藩関係者の目に止まってしまった場合、「事実無根である。我が藩主を愚弄するか」などと抗議でもされたら、記録した役人が腹を切らなければならなくなるかも知れません。

 

そんな事になるぐらいなら、まあ嘘も方便という事で旗本の妾腹だという事にしておこう。本人が藤堂平助だから、父親の名前は藤堂平之丞にでもしておけば良いだろう。

 

というのが、この『維新階梯雑誌』の記述の真相なのではないかと思ったりします。ところが実際に藤堂秉之丞という旗本が実在していて、平助の父親だとしても年齢的に矛盾しないので有力視されているというのが “今” なのではないでしょうか。

 

僕としては、他はともかく永倉新八のように長年そばにいた人物が「藤堂和泉守落胤」だとしている事の方がよほど重要だと思えてしょうがないのです。