田中新兵衛略伝(4) | またしちのブログ

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文久三年五月二十日夜、田中新兵衛ら三人の刺客は御所朔平門外猿ヶ辻に尊攘派公卿姉小路公知を襲撃しました。

 

姉小路卿の従者金輪勇は太刀を持ったまま逃走し、姉小路卿を守るのは若干十九歳の吉村右京ただ一人となってしまいました。また金輪勇に太刀を持ち去られてしまった姉小路卿は、やむなく手に持っていた扇子で応戦せざるを得ませんでした。

 

新兵衛は姉小路卿に激しく斬りつけましたが、武術の心得のあった卿は、ひるまずに新兵衛の刀を素手で掴み、奪い取ろうとしたといいます。

 

そうして揉み合っている間に、吉村右京が新兵衛の背後から刀を突き刺しました。『八条隆祐卿手録』によると、その一撃は新兵衛の体を「刺し通せし由」つまり貫通したようです。これにひるんだ隙きに刀を奪われた新兵衛は、同志二人に抱きかかえられるようにしてその場を逃走しました。

 

一方の姉小路公知卿は、吉村右京の肩を借りてなんとか自宅屋敷まで戻ったものの、間もなく息を引き取りました。

 

吉村右京は京都市中の刀屋を呼び集め、現場に残された刀を調べさせたところ、竹屋町烏丸東入ル(現・中京区清水町)の刀屋某が「私どもが薩摩の田中新兵衛様からお預かりした拵えのようだ」と証言。また油小路御池南へ入ルの塗師金八も同様の証言をしました。塗師にまで刀を預けたという事は鞘の色まで変えていたのでしょうか。

 

ちなみに、新兵衛が愛刀奥和泉守忠重の拵を新装したとされる刀屋が店を構えていた竹屋町烏丸東入ルというのは、前年に新兵衛が暗殺した島田左近の邸宅があった場所から歩いてほんの4,5分の場所です。無論、実際の暗殺が実行されたのは二条木屋町なので場所が違いますが、当然ながら左近の事件もまだ解決していなかったわけで、いかにも大胆不敵な行動と言えます。

 

 

 

 

 

 

そして同月二十六日の朝、会津藩公用人外島機兵衛率いる手勢が東洞院通蛸薬師入ルにあった薩摩藩が借り上げていた邸宅を取り囲み、新兵衛の出頭を求めました。

 

一般的にはこの時外島機兵衛が率いていたのは会津の藩兵だったといわれていますが、『中山忠能日記』には「会津の回り浪士」とあり、その事を含めて武家伝奏の野宮定功に事情を確認したとしている事から、この時外島が率いていたのは壬生浪士組(のちの新選組)であったのではないかと思われます。他の史料では「会津の巡邏の士」「会津の手勢」などと書かれていて、いずれも壬生浪士組だとしても矛盾はしません

 

また、そうだとすれば田中新兵衛逮捕が壬生浪士組としての初の公式の出動であった可能性もあると言えるでしょう。

 

東洞院通蛸薬師入ル付近。右は御射山(みさやま)公園。新選組初出動の地の可能性も。

 

 

この時、「会津の手勢」は薩摩藩が正規に借りている住宅であるにもかかわらず、強引に押し入るなど無礼な行為があった為に薩摩側は会津に強く抗議した事や、それでいて両者はすぐに和解した事なども会津藩士ではなく預かり浪士たちの所行だったからだと考えると納得出来ます。

 

くだんの新兵衛は、姉小路公知卿襲撃の際に腹部を貫通するほどの刀傷を負っていた事は前回述べました。それを知っていた会津側は籠を用意していましたが、新兵衛は乗る事を拒否し自力で歩いて東町奉行所に出頭しました。また両刀を渡す事も断固拒否しています。

 

そして、その日の暮れ七つ時(夕方4時頃)、新兵衛は突然脇差で自らの腹部と喉を切って自害してしまいます。田中新兵衛こと田中雄平親光、享年31歳。

 

新兵衛は何も言わずに自害したとされていますが、史料の中には

「白状の仔細これ有り」(『中山忠能日記』)

「実に田中は本人なるべしと申す事にて候」(『島津家国事鞅掌史料』)

など自白した事をうかがわせるものもあります。新兵衛の死後、吉村右京を呼び寄せたところ「刀傷し人に相違いこれ無し(私が斬った男に間違いありません)」と答えました。

 

新兵衛の自害を止められなかった事で京都東町奉行永井尚志は差し控え(=謹慎)処分となりましたが、その永井の子孫である三島由紀夫が映画『人斬り』で田中新兵衛を演じたというのも何やら運命がかっています。三島は友人宛の手紙に

 

新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井主水正の曾々孫が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう。

 

と書き綴っています。

 

その田中新兵衛は現在、薩摩藩の京都における菩提寺である東福寺即宗院に眠っています。