千賀浦という女 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

千賀浦は、文久二年に起きた一連の天誅事件の最初の犠牲者である島田左近の義理の母にあたる人物です。

 

 

 

本名(本姓?)は増田(『平塚清影雑集』による)というらしく、千賀浦というのは、どうやらかつて芸者だった時の名前のようで、どういうわけか島田家に嫁いだのちも千賀浦と呼ばれ続けていたようです。

 

千賀浦は「ちかり」と読むらしい。ちなみに、千賀ノ浦(ちがのうら)ならば現在の仙台塩釜港の事を指しますが、何か関係があるのでしょうか。

 

先日宮川町を訪れた時に偶然知ったのですが、この「千賀~」というのは、現在も同町で営業を続けるお茶屋「駒屋」に所属する舞妓さんが代々引き継いでいる名前のようで、現在も「千賀菊」さんや「千賀梅」さんなどの舞妓さんがいらっしゃるようです。

 

まあ、祗園や島原など、他の花街にも同じく「千賀」の名を継いでいるお茶屋さんがあるかも知れないので、駒屋の舞妓さんだったと断言は出来ませんが、何れにしろ花街出身だったのは間違いないでしょう。

 

しかし、それはそれで問題です。というのも、千賀浦は九条関白家の家臣だった島田某に嫁いだ事になっているのですが、その島田家が九条家の中で力を得るのは、むしろこの千賀浦が九条尚忠の寵愛を受けるようになった後の事であって、夫の「某」は下級の家臣に過ぎなかったようだからです。

 

おそらく「某」には、千賀浦を身請け出来るほどの財力はなかったはずです。

 

そうなってくると、あるいは女癖が悪い事で有名だった九条尚忠が千賀浦を身請けして、何年かして飽きてしまったので家臣の島田某の嫁に「与えた」のか、と考えられそうですが、それだと千賀浦の立場は弱いものとなるはずなので、その後の権勢に結びつきません。

 

という事は、もっとアブノーマルな話になってしまうのかも知れません。つまりは女癖が悪かった九条尚忠は、周囲の批判(たとえば天皇から直接苦言を呈されてしまったとか)を気遣って、千賀浦を直接自分の愛人とせず、自分で金を用意して身分の低い家臣の島田某に身請けさせ、二人を結婚させておきながら、自分の愛人として寵愛したのではなかったでしょうか。

 

そういう不倫関係を強要された事を、千賀浦は逆手に取って九条家の中での発言力を強めていったのかも知れません。きっと彼女は、ただ男の言いなりになるだけではなく、不遇な環境を自分の力に変えていける強い女性だったのでしょう。

 

それは同時に、それが出来得るだけの、つまり九条尚忠を長年虜にし続けられるだけの美貌と魅力の持ち主であった事でもあります。

 

そんな強くて美しく、なおかつ才智に富んでいた千賀浦の人生を狂わせてしまったのが、他ならぬ島田左近だったのかも知れません。若かりし頃は大変な美男であったという左近に、千賀浦は真剣に惚れ込んでしまったのではなかったでしょうか。

 

しかし未亡人であり、亡き夫の主、九条尚忠の愛人でもあった千賀浦に出来る事は、左近を娘婿に迎え島田家を継がせるという事しかなかった。

 

自分の思いを遂げる為に娘を犠牲にしたのだとすれば、それもまたずいぶんアブノーマルな話ですが、道ならぬ恋の代償は、やがて田中新兵衛らによる左近の殺害という最悪な結末を迎えてしまう事になります。

 

愛する左近が殺された後、自分自身も過激浪士に命を狙われる危険があった千賀浦は、娘や孫と共に島田家の知行地があった石見国に逃れ、歴史の表舞台からひっそりと姿を消してしまいます。

 

その後、彼女がどういう人生を歩んだのか、誰も書き留めていないのです。

 

 

宮川町・駒屋さんの前で。