赤報隊の相楽総三について、少し考えている事があります。
相楽総三は慶応四年三月三日に下諏訪宿で処刑されてしまいましたが、その相楽率いる先鋒嚮導隊(赤報隊一番隊)の所持していた物品は諏訪藩により押収され、その一覧が『相楽総三関係史料集』に収録されています(「 相楽総三より引揚之物品取調帳 」)。
その中に「サハヘル 鞘無之」つまり、鞘のないサーベルが一振り含まれているのですが、サーベルは別名「指揮刀」と呼ばれ、官軍においては小隊長クラスの幹部に授与されたもののようです。
つまり、この鞘のないサーベルは相楽総三が所持していたものだと考えられるのですが、そもそも
「なんで鞘がなかったのだろう」
というモヤモヤとした疑問がずっと頭の中に残っていました。そして、この鞘のないサーベルを元に、ちょっと大胆な仮説を立ててみました。
それは、サーベルの鞘は相楽総三自身が叩き割ってしまったのではないか、というものです。
相楽総三は、元々は佐幕派であった事が西澤朱実先生の研究で判明しています。同じく薩邸浪士の副総監であった落合直亮も
「先祖よりして数代の間、旧幕府の末々に連なっておった家筋の者ゆえに、何分にも徳川家に背いて勤王仕ると言う事は安ぜぬ為に、何とかして徳川家と共に一致して尊皇攘夷の本意を遂げんと思いまして奔走仕りました。
それ故に佐幕正義と言う名をつけられまして、討幕論の人からは大いに忌まれておりました」
と、元は佐幕派であった事を自ら認めています。
そんな彼らが倒幕派に加わったのは、幕府が不平等条約のもとにズルズルと開国政策を続けていったあげくに、「攘夷のさきがけ」であった長州に対して二度に渡って征伐を繰り返した、つまりは攘夷の芽を潰そうとしたからに他なりません。
しかし、さればこそです。
そんな、攘夷のために幕府を見限ってまで薩長土に味方した彼らが、江戸から辛くも脱出して京にたどり着いた時、洋式軍装に身を固めた“官軍”の兵士を見て、何も抵抗なくその事実を受け入れる事が出来たでしょうか。むしろ
「しまった!俺達が味方するべきは、コイツらじゃねえ!」
と直感したのではなかったでしょうか。そして、そんな「だまされた」という怒りが、託されたサーベルの鞘を叩き割るという行動に表れたのではないでしょうか。
だとすると、相楽が“官軍”の命令を徹底して無視しひたすら前身し続けた事にも納得が出来るように思います。
だとすれば、碓氷峠を占拠した相楽は、そのまま幕府軍が峠を越えて信州に入るのを待つつもりだったのかも知れないし、あるいは甲陽鎮撫隊が甲府城を奪取するのをサポートするつもりだったのかも知れません。
ひと昔前まで“御近所さん”だった相楽と当時の幕府軍事総裁勝海舟との間に、何かのつながりが元々あった可能性も、まんざら「ない」とは言えないよう思えます。
相楽総三は少年時代、赤坂氷川神社を毎日のように参拝していたと手紙に書き残していますが、彼の住んでいた三分坂の酒井家屋敷から赤坂氷川神社へと向かう道すがらにあったのが、他ならぬ勝海舟の屋敷でした(※)。相楽は遠回りしないかぎり、参拝のつどに勝の屋敷前を歩いていた事になります。
他ならぬ勝先生なら「よう兄ちゃん、毎日熱心なこったな」なんて声をかけそうではありませんか。実は二人、古くからの顔なじみだったのかも知れません。
まあ、何一つ証拠がない話だし、むしろいくつもの証言・史料を否定しなければ成立しない話だと思うのですが、ある種の「歴史ロマン」の一つとして、こういう可能性も残しておいて良いかな、という気がします。
※.相楽が住んでいた酒井家屋敷と勝海舟の屋敷、赤坂氷川神社の位置関係はこちらの記事をどうぞ→赤坂氷川神社