赤報隊戦記(54) 友来たる | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

明けて14日も、先鋒嚮導隊の隊士たちは謹慎を続けていました。

そして翌15日、佐久郡に出張していた西村謹吾が下諏訪の本陣へ帰参します。西村は逮捕令が出た事を知ると出張中の部隊を連れ戻すために、即座に早駕籠に乗って軽井沢に向かいました。

そしてその日の夕方、謹慎を続ける嚮導隊を訪ねて2人の人物が訪ねて来ました。それは薩邸浪士の副総裁だった落合源一郎直亮と、同じく大監察の権田直助でした。

京にいた落合と権田は10日に岩倉具視に呼び出され、関東の情勢を探るようにとの内命を受け東へ向かっている途中でした。

余談ながら、権田が書いた『東行日記』によれば、内命を受けたのちに科野東一郎や鯉渕四郎ら在京の薩邸浪士元幹部を集めて話し合った、という事なので、やはり科野は嚮導隊には戻って来なかった事になります。

それと同時に赤報隊には加わらなかった落合、権田、鯉渕、あるいは上田修理らの薩邸浪士元幹部たちが、皆岩倉具視や薩摩藩の庇護を受けていた事と、度重なる軍令違反にもかかわらず、相楽が京へ使者を送り続けていた事が無関係だとは考えにくいと思われます。

つまり、相楽は赤報隊に加わったのちも、彼ら在京同志をパイプ役として岩倉や西郷との接点を保持し続けたと考えるべきで、だとすれば、東山道総督府の出頭命令に従わずに相楽が京に向かった理由は、岩倉や西郷に助力を求めに行った、と考えるのが妥当なのではないかと思われます。

綾小路卿による岩倉への相楽の助命嘆願(2月9日)の翌日に、相楽の同志である落合、権田が岩倉の命令で出立し、早駕籠を乗り継いで信州路まで急行した事は何よりその事実を物語っていると言えないでしょうか。

『いい話ほどあぶない ~消えた赤報隊』(野口達二)では、赤報隊抹殺の黒幕に仕立て上げられてしまった岩倉と西郷ですが、真実はまったく逆で、相楽を助ける為に動いていたという事になるのかも知れません。

すでに、十分以上に広まってしまっている通説をひっくり返すには、きっと多くの時間が必要でしょうが、草莽の志士たちの名誉と同様に、権力を得たが為にあらぬ汚名を着せられてしまった者たちの名誉も、また守られなければならないとは言えないでしょうか。

落合直亮