都々逸坊扇歌 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

「どどいつ」の創案者都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)は文化元年(1804)、常陸国久慈郡大里組磯部村(現茨城県太田市磯部町)の医師岡玄策の次男として生まれました。一節に寛政八年(1796)生まれともいいます。

参考にした『江戸時代おもしろ人物百科』では、出生地について「常陸国太田在佐竹村磯部」としていますが、これはどうも明治期の地名のようです(明治22年に磯辺、天神林、稲木、谷川原の四村が合併し佐竹村となる)。

また生年についてですが、幼名を「子之松(ねのまつ)」といったため子年であった文化元年生まれとする説が有力である一方で「石岡市史」に寛政八年生まれとされているようです。

七歳の時に兄ともども疱瘡(天然痘)を患いましたが、父の玄策は「古来より疱瘡を患った者に青魚を食べさせるのは『大毒』だと言われているが、果たして一体何がどう悪いのか」を調べるために、兄にカツオを、弟の子之松にイワシを食べさせてしまいます。

その結果、兄は失明し、子之松も半失明して顔にあばたが残る事となってしまいました。兄はその後江戸の鍼医に弟子入りするものの病気を患って若くして死んでしまったそうです。

目がほとんど見えなくなってしまった子之松ですが、その代わりに聴覚が冴えていたらしく、姉が習っていた三味線や小唄に興味を持ち出すと、たちまち姉以上の腕前になり、やがて芸事に熱中するようになります。

師匠を呼んで三味線と唄の稽古をさせる事を条件に、升屋という造り酒屋の養子になった子之松は、名を福次郎と改めます。しばらくは養父母と共に音曲の稽古に精を出す幸せな日々が続きましたが、やがて子は出来ないものと諦めていた升屋夫婦に実子が生まれると、福次郎は次第に疎まれるようになり、やがては家を追い出されてしまいます。

放浪の旅に出た福次郎は、ついには三味線をも手放さざるを得ないほど困窮しますが、味噌漉しの底を抜いて和紙を張り、はたきの柄を取り付けて絹糸を縒り合わせた弦を張るという手製の三味線を自作して歌って歩いたといいます。

やがて上方で流行していた「よしこの」と尾張熱田で歌われていた「神戸節(ごうどぶし)」をヒントに「どどいつ」を創作し、江戸に上った福次郎は、船遊亭扇橋という「音曲ばなし」で人気を博した芸人に弟子入りし、都々逸坊扇歌と名乗ります。

どどいつは大評判になりますが、扇歌の芸はそれだけに留まりませんでした。扇歌の考案したもうひとつの芸が「謎かけ」です。「◯◯とかけて何と解く」というアレです。

扇歌は客にお題を出してもらうと「♪なんじゃいな なんじゃいな」と歌いながら謎を解くという手法で、これまた大人気になりました。現在まで語り継がれている謎かけとして、たとえば
「大石内蔵助とかけて何と解く」
「♪なんじゃいな なんじゃいな(きっと客も一緒になって歌ったのでしょうね)」
「唐辛子と解くわいな」
「その心は」
「赤う(赤穂)て辛う(家老)じゃないかいな」

などがあります。

扇歌が高座に上がると周囲八丁の演芸場に客がいなくなるといわれた事から「八丁あらし」の異名がつくほどの人気者となった扇歌でしたが、やがて社会風刺や政治批判などの色合いが強くなり、水野忠邦の倹約令にひっかかって嘉永三年(1850)、江戸を追放されてしまいます。

故郷常陸に戻った扇歌は、姉夫婦の元へ身を寄せていましたが、2年後の嘉永五年(1852)に息を引き取りました。享年49歳。

扇歌が残した歌は

潮時ゃいつかと千鳥に聞けば わたしゃ立つ鳥 波に聞け

菊は栄えて葵は枯れる 西に轡(くつわ)の音がする


などが有名ですが、特に下の歌…そりゃ江戸追放されても仕方がないかな(笑)

でも、これを嘉永三年以前に歌っていたとすれば、時代を見る目の鋭さは、やはり卓越していたのでしょうね。

政治ドラマや恋愛劇も結構ですが、たまにはこういう人を大河ドラマの主人公にするのもオツなものではないかと思いますが、どうでしょうねNHKさん。

参照『江戸時代おもしろ人物百科』新人物往来社

都々逸坊扇歌