あーあ (´∀`;) なんか気の毒

 

 

でも、どうせここから、なんとかなりましたぁ、助けが来ましたぁ、みたいないつもの展開になるんだろうけれど、この人ってバイクで事故って俺は運が悪いみたいに言い始めて、南米まで行ってアヤワスカのような疑似神秘体験みたいなことをして、そのあと祈祷師みたいなキモい連中と接触してからおかしくなっちゃった気がすします。

 

だから私は前々から一般に逆だと思われがちなことについて繰り返し指摘してきたんですよね。

 

ああいう「霊的」とか「神秘」とか言い出す世界は、生き辛さを感じる人や、貧乏人や、愚か者をターゲットにはしない、と。むしろ、金持ち、成功者、エリート、そういった自信をつけた人間ほどカモりやすいことをよく知っている世界なんだ、と。

 

この人もやったアヤワスカなんざ同じことを(面白半分に)やってみた私に言わせれば、人間という生き物もこの世界もひどく冷淡で機械的な仕組みによってしか動いておらず、神秘や霊感やそれこそ意識といったものがいかに虚しいものであるかを識る最良のチャンスだったと思いますよ。でも変に自信のある人たちってそこで見た神がかった幻覚を冷酷かつ残忍に打ち払うことができずに、かえってひざまずいてしまう。

 

いい人たちなんだろうな。

 

私は神仏聖霊なんぞ握りっ屁でもくらっとけみたいな根っからの悪だからそういうものに毒されずに済んだんだと思いますわ。

 

比叡山のTV番組を見た時に何時間も手すりにつかまったまま一睡もせずに立ち続けるという修行があって、私はああいうものは何のためにやるのかわからなかったけれど、今ならなんとなくわかる気がするんですよね。若いころ原因不明の睡眠障害に悩まされた私が幾度となく幻覚を見ていたことを書いたことがありますが、一睡もせずにふらついて手すりに頭ごっつんするほどに立ち続けたらそりゃ幻覚ぐらい見るでしょう。肉体を限界まで追い込むことで、これは幻覚なのだ、人の心はこういうものを生み出すものなのだと自ら知ること、あるいは先達が修行者に知らしめることが目的なのであって、決して幻覚を見て「わぁ♪ついに覚醒しちゃったぁ♪宇宙の真理に近づいちゃったぁ♪」というのを目的にしていたんじゃないように思えます。密教の教えにも、たしか菩薩から如来になるためには難行苦行によって得た神通力を手放さなければならい、というのがあった気がしますが、そういうことなんだろうと思いますね。

 

私はニコチンとアルコールにまみれた俗物だから悟りなんて知らないし興味もないけれど、悟りというのがあるとすれば、現実のことわりを受け入れたその先にしか無いんじゃないかと思いますよ。

 

 

曲は、姫神 「あの遠くの遥かな声」