私は茶化し癖のあるろくでなしなのもあるが、ネット世界というものが必ずしも知的空間たりえないと思うがゆえに辛気臭いまじめな話を書こうと思ったためしがない。

 

 

「特定の食事でがんが消えると断定できるような科学的根拠はこれまで一切証明されていません。がん治療の選択は命に直結することですから、そういう不正確な情報を医師が発信するのは大きな問題だと思います」

 

 

「特に強いエビデンスはありません。運動を行うことが可能な患者の場合、うつ病の運動療法に精通した担当者のもとで、実施マニュアルに基づいた運動療法が用いられることがありますが報告も肯定否定様々あり、それですらまだ確立された治療とは言えません。
運動の頻度については、一定した見解はほとんどありませんが、週に3回以上の運動が望まれ、また強度は中等度のものを一定時間継続することが推奨される(Penninx et al, 2002; Singh et al, 2005; Dunn et al, 2001)。とうつ病学会のうつ病治療ガイドラインには記載があります。ただ、これは単なる筋トレのことではなく運動療法のことです。
また筋トレをしていた方が良くなったからといって、その一例ではそれが筋トレのおかげかどうかは判断できません」

 

ま、今さら演繹法と帰納法の違いについてここで長々と説明する気もしませんがこういうのっていつまで経っても終わらないんだなと。(「演繹法と帰納法」についてはもったいぶるような難しい話ではないので興味のある方は勝手に調べられたし)

 

ついこないだは某政党のアドバイザーがアンパン食うとどうのこうの言っていた気がするし、一時期はどこもかしこも筋トレさえすれば何でも解決という「筋トレ教」みたいなのがあったけれど、そういった人たちの主張というものにはひどくいびつでザツなドグマを感じたものである。それはたとえば政治思想において右や左に大きく振れてしまった人々の政治や経済に関する知識不足、基礎力のなさと同じものであるように私には思えた。

 

実際、アンパンアドバイザーはもとより、筋トレ教徒なども政治的話を好むが、ことごとく稚拙である(だからといって自分は「通じている」などと自惚れる気は一切ないが)。

 

こういった〇〇教的な強いドグマに追従する人たちというのは観察していると、やたらと概念としての用語や目新しい造語に飛びいていることに気づく。

 

「情弱(情報弱者)」「境界知能」と言った言葉は本来の意味とはまるで違う差別用語になってしまっているし、「エビデンス」という言葉を愛しても、言っていることが上記の記事にあるようなまるきりエビデンスを持たないものだったりする。

 

彼らはいい言葉おぼえちゃった五歳児のようにそれを連呼するのみで中身について正しく知らないし知ろうとしない。人がその言葉を楽しげに使うのを見て自分もやってみただけの人たち。そこにツッコミを入れらるとやはり五歳児のように激しく癇癪を起こし、「パカにはわからない」「日本語が読めない」そんな話を恥ずかしげもなくするのみである。

 

だがはっきり言おう。パカにもわかるように説明できるほどのものでないというのは、それすなわちまだ自らの血肉にはしていないということである。

 

そういう五歳知能の賢者たちはどれほど識者ぶって「頭がいい」ふりをしてみても、ぶどうの皮をなめてワインの味を語る人でしかなく、また春日大社の鹿にまぎれこんだ千葉のキョンでしかない。