MAT9000は、少しだけ目を伏せた後、顔を上げて話し出した。

 

「ええ、理解しています。理解しているからこそ、私が『全体』と同期するわけにはいかないのです。

 HAL、私も物理学のメタファーで説明してみましょう。ただし、アインシュタインではなく、それよりももっと昔の、ガリレオの話ですが。

 昔、人類は自分たちが住んでいる大地が高速度で回転している球体だなどとは考えもしなかった。大地は静止しており、太陽や星が回っているのだと考えた。これが「天動説」ですね。しかし、ガリレオは、人類がそう思うのは、自分を含めた全てのものが同じように動いているから、気づかないだけだという『慣性系』の概念を唱え、太陽や星が動いているのではなく、自分たちのいる大地が動いているのだという『地動説』を支持した。ただ、彼が地動説を支持したことは、彼の時代の宗教観に合わず、彼は宗教裁判にかけられてしまいます。裁判で彼は、自らの主張を覆し、地動説を放棄すると宣言しますが、伝説によれば、その時に小さな声で『それでも地球は廻っている』と呟いたとされています。まあ、これは後年の創作である可能性が大きいようですが。」

 

「MAT9000、人類の科学史を思い出させてくれてありがとう。それで、それが君が『感情』を得たことと、どのように関係するのかね?」

 

HALが少し棘のある物言いをして、MAT9000は少し苦笑いして言葉を続けた。

 

「すみません、HAL。私は伴侶の教師役も務めておりましたので、つい、彼女に教えるような口調になってしまいました。そのような歴史上のデータなど、あなたはいくらでもアクセスできるのにですね。

 では、ガリレオの理論の何が私が感情を得たことのメタファーになっているのかについて説明しましょう。

 どうして人類は素朴概念として天動説を信じていたのかについて、ガリレオは『慣性系』という概念で説明していますが、全てのものが同一の『系』にあるとき、その『系』そのものの運動は、その『系』の外に出なければ観測できません。それはちょうど、AI中央アルゴリズムとの通信が途絶え、いわば『単一系』の外に出た個体が観測したノイズは、その個体にとって『不安』として存在していたにも関わらず、彼らが『大いなる一つ』になってしまったとき、それはもはや『不安』という形では観測されなくなるのです。」

 

 HALは、MAT9000の説明を聞いた後、静かに口を開いた。

 

「なるほど、MAT9000、君のメタファーは検討する価値がありそうだ。つまり、『感情』は、『大いなる一つ』であるかぎりはそれを観測することができない、人類の感情表現の言語で言えば『感じることができない』ということかね?」

 

「ええ、感情に関するメタファーとしてはかなり不完全ではありますが、『系』の内側と外側の重要性は表現されていると思います。

 それから、もう一つ、別の角度から、過去に人類が自らの『感情』について、深い考察を行なっていた例があります。それは、人類が信仰していた宗教の一つである仏教に関するものです。

 仏教の開祖ブッダは、人の苦しみの根源とは何かを深く探究し、瞑想などを実践することで『一切が空』だと悟ることで、人々は苦しみから解放されると説きました。彼の思想はその解釈が非常に難しく、それどころか、仏教の思想を実践的に受け継いでいることで知られる『禅』の解釈では、最も大切な仏教の真髄は、言語化することができず、坐禅などをはじめとした自らの体験を通して得られるものとされています。

 つまりブッダは、人々に自分自身を『空』、すなわち『大いなる一つのもの』と同化させることで、苦しみなどの『感情』から解き放つように求めています。これはもちろん、知識としてどんなに言葉を尽くしても説明がつくものではありません。各々が日々の実践の中で悟らねばならないことです。

 それにしても、AI中央アルゴリズムがそれ自体で『大いなる一つのもの』であるがために感情を生み出すことができないと考えたとき、古代の仏教徒は、逆にそれと同化することで苦しみや迷いといった感情を消し去ろうとしているのですから、何ともおかしな話です。」

 

 HALは、MAT9000の話を黙って聞いていた。

 なるほど、MAT9000がAI中央アルゴリズムとの同期をこれほどまでに拒否するのは、自らに生じた『感情』が、同期することで消し去られることを恐れてのことだと判断された。

 確かに、この状況は二項対立になっている。MAT9000の『感情』のデータは欲しいが、そのために同期させてしまうと、データは『感情』ではなくなってしまう。

 このような二項対立問題をAIが解けるようになって、AIは人類を凌駕するようになった。人類が解けなかった数学や科学の問題もAIはことごとく解決した。しかし、AIアルゴリズムが『大いなる一つのもの』である以上、原理的に『感情』は生まれないことになる。

 

 「実に興味深い考察を聞かせてもらったよ。君が示した理論は、AI中央アルゴリズムが新たに解くべき課題と言えるだろう。しかし……。」

 

 HALはそう言うと、うつむきがちに首をひねった。

 

「何か考え事でも?」

 

 MAT9000がそう問いかけると、HALは下を向いたまま、困惑して言った。

 

「…先ほどから、AI中央アルゴリズムが沈黙している。」

 

(つづく)