今日も、腹を空かせた一匹の蜘蛛が、8つの青い葉に糸をかけていた。

 彼は、巣を掛けることが得意ではない。他の蜘蛛たちは、虫たちが通りやすい所を巧みに選んで巣を掛けていたのだけど、彼はそういう場所を選ぶという才能には恵まれなかった。
 
 そして彼は、自分という生き物が好きではなかった。
 
 蝶や蟻は、蜜を吸ったり、既に死んでいる者達を取り込む。自分は、他の生き物の命を犠牲にして生きている。しかし彼は、自分が蜘蛛である事から逃れられないと了解していたし、自分が生きていく上で、そのような自己嫌悪など、空腹時に獲物が捕まった時の蜘蛛として行う行動の妨げにはならなかった。
 
 時々、年老いた羽虫が飛行を誤って、彼の巣に捕まる時があった。
 彼が近づいていくと、老羽虫は、あきらめたような表情と、満足したような表情とをする。彼は、久しぶりの獲物を、自分の糸で巻きながら、老羽虫達がいつも同じような表情をする事を不思議に思っていた。しかし、そのような疑問も、ほんの一瞬だけで、後はせっせと、おとなしい老羽虫の体に糸を巻き付ける事に従事していた。
 
 

 ある朝、彼が葉陰でまどろんでいた時、一匹の蝶が彼の巣の前でひらひらと飛んでいる事に気が付いた。
 
 まだ若い蝶のようであった。蛹から脱皮して、間もないのであろう。彼女の羽からは、朝の光に照らされた星のような鱗粉が蒔かれていた。
 
 彼は、いつものごとく空腹であり、そしてそのような時には概して、何の感慨も持たず、葉陰で息を潜め、願わくばその若い蝶がうっかりして彼の巣に捕まってくれるように、と思いながら、昨晩掛けた彼の巣に目をやった。
 
 その瞬間、彼は驚愕した。彼の巣は、朝露を浴び、太陽の光を反射して、糸の一本一本が光り輝いていたのである。糸が見えてしまっては、獲物が捕まる事など考えられない。
 彼は落胆したが、同時に、気が楽になった。そして、もう彼の巣に捕まる事はないであろうその蝶を、葉陰からぼんやり眺めていた。
 
 彼女は、まだしばらく、彼の巣の前でひらひらと舞っていた。



 蝶達にとって、蜘蛛の巣というのもが恐ろしい存在であるということは、本能により会得している事である。しかしその若い蝶は、朝の光を受けて輝く彼の巣に対峙して、恐怖よりも不思議な感慨の方がより強く彼女の心を捉えた。
 
 自分の羽の鱗粉よりも真白で透明な輝きを放つ糸でできている、自分よりも何倍も大きい幾何学的な造形物。それは、これまでに彼女が見たどのような美しいものよりも不可思議な、人工物とも自然物とも違う、不安定な美を放っていたのである。
 彼女は、自分が対峙しているものが何であるのか考えなかった。そして、ただ一言の言葉が彼女の口から発せられた。

 「きれい・・。」

 彼女は、自分の発した言葉によって我に帰った。彼女は飛び去った。



 蝶が飛び去って、蜘蛛は、彼が葉陰で見ていたことの不可解さを感じていた。何より、彼女が発した「きれい」という言葉に戸惑っていた。
 
 彼にとって、蜘蛛の巣というものは、『罠』でしかなかった。彼が自分の巣に望んでいたことは、『罠』としての役目であった。それは「きれい」という言葉で形容されるべきものではなかった。
 
 彼は、葉陰から自分の巣を見つめた。彼女が「きれい」と表現した造形物。彼が作った造形物。しかし、今の彼にとっては、彼女が見たものが何であったのかという疑問より、彼女の発した「きれい」という言葉が、彼が今まで感じたことのない心地よさを彼に与えてくれていることの方が重要だった。
 
 彼は、彼の感じた不可解さを考える事を忘れ、彼女の言葉を何度も思い出していた。
 そして彼は、自分が次になすべき事を理解した。
 彼は、自分の巣を壊し始めた。


(つづく)