連休最終日…なにするかまだ決めてない(汗) | 目指せ!!底辺からの形勢大逆転!!

目指せ!!底辺からの形勢大逆転!!

今は生活保護受給中&病気のデパート状態だけど、
いつかきっと形勢大逆転して、実家連中ぎゃふんと言わせてやる!!
そう思ってタイトルから何から気分一新しました。ついでにハンドルネームも変更しました。

みなさん、おはようございます。

実は今日の予定、まだ全くの白紙です。

いわゆるノープランというやつですな。

なのでって訳でもないのですが、

今日は自分の生い立ちを少しだけ書いてみようと思います。

 

かなりダークな話題なので、

私のことをよく思っていない方(特にM田家関係者!!)、

暗い、冷たい話題はちょっと…という方は、

先日の妄想日記同様、

全速力でスルーでお願いします。

 

私の黒歴史、聞いてやるよ!!という、

本当の意味での勇者のみなさん、

どうか私の話にしばしお付き合いくださいませ。

 

 

私は大阪記念万博の開催年に生まれました。

幼少期は…一人遊びしかしなかったような…記憶があいまいで恐縮なのですが…

集団で遊ぶことが全くできなかったような気がします。

言葉も遅かったみたいだし、トイレ覚えるのも遅かったみたいだし、

親の中で何かがおかしいとは感づいてはいたようです。

そんな理由で、人生初のカウンセリングは当然親同伴。

当時の診断結果は「自閉症」でした。

今でこそ、ネットとかで情報調べられるので、正確な知識を得ることができると思いますが、

当時は「自閉症」の言葉すら世間には認識されておらず、

親もまさか自分の娘が自閉症だとは信じたくなかったのでしょう。

なまじっか知能が高かったがために、障害認定すらさせてもらえず、

この後40歳になるまで「健常者」として生きて行く羽目になるのです…

 

小学校低学年のころまでは、親は私に超やさしくしてくれました。

毎日のようにお風呂に一緒に入ってくれていたようです。

私も親はやさしくて、なんでもしてくれる存在なんだと認識してしまっていたようで…

ところが、小学校3年に進級する際、

カウンセリング終了という結末を迎えます。

ここからが悲劇の始まり。

急激に親は私に対して厳しく当たるようになり、

同時に健常者である弟(一つ下)と、

後から生まれてくる妹には優しくし始めました。

 

なにかへまするだけで親の怒号。

時には殴られ、時には蹴られ、時には「死ね」の一言まで言われました。

ここから私を心底から褒めることがなくなり、

ねぎらいの言葉をかけてもらうも形だけになりました。

障害持ってる私は当然対応できるはずもなく、

いつしか「なにをやってもダメな子」のレッテルが貼られ…

ここまでは当時の障害者のテンプレートみたいな生き方ですな。

 

ここで、弟や妹がサポートしてくれたなら話は変わっていたかもですが、

サポートどころか親と同調して軽蔑の目しか向けられませんでした。

弟には半分奴隷扱いされ、週間漫画雑誌毎週買わされました。

当然弟がお金出すはずはなく、私のお小遣いからちまちま購入していました。

その他にも、親同様、時には殴られました。「死ね」とも言われました。

確かに常識的な行動ができていなかったのもあるかもしれませんが、

障害持ってる以上、覚えるのが遅いのは当たり前の話。

家族間で差別されてたら、ぐれるのは当たり前ですよね??

 

いじめも当然受けました。

幼稚園のころから中学校3年の2学期辺りまでほぼ断続的に受けました。

小学校5年から卒業まで、あだ名は「ゾンビ」。

周りから無視されるだけでなく、

一通りのいじめは全て受けたような記憶があります。

小学校・中学校の修学旅行は当然行きたくないと親に訴えるのですが無視され、

結局強制的に参加させられてしまいます。

学校の担任も、最終学年に進級してから急激に厳しく当たる様になりました。

親から担任に厳しくしてくれとの要請があったみたいです。

その頃にはしんどいサインすら出させてもらえず。

当然保健室に逃げ込むことすら出来なくなりました。

親と同級生の圧力で。

今のご時勢じゃ考えられない話です。

せめて主要5教科の勉強だけは頑張ろうとするのですが、

「おまえは一番でなきゃダメだ!」ということで、

クラスで2番目という成績、普通の親だったら自慢しますよね?

でもうちの親は実際クラスで2番目でも叱り飛ばしましたよ。

もっと勉強しろと。

物心ついたころから反抗心しか持ち合わせていなかった私は、

当然反発しますが余計返り討ちに。

しぶしぶ、いやいや、謝罪してようやく許しを得る生活が

結婚するまで、いや、離婚して勘当処分を受けるまで続くことになります。

 

結局、夢すら見させてもらえなかった私は、

当時の養護学校(今で言うところの支援学校)に行かせてもらえず、

高校も全日制の、しかも進学校に行かされる羽目に。

つまり、お前は大学卒業しないとダメだということだったみたいです。

ところが…ここで落ちこぼれます。

まあ当然ですよね。障害により、勉強する習慣、身につけられなかったんだから。

高校では不思議と直接的ないじめはありませんでした。

これ幸いとばかりに友人も出来始め(今は音信不通だけど)、

生徒会活動にも積極的に取り組んだのですが、

勉強しないつうか、自宅で勉強できないのはあいかわらず。

当然高校の勉強にはついていけるはずもなく、

見事にクラスでびりっけつ。

赤点通算4回。追試も通算4回。

なんとかギリギリで高校卒業までこぎつけましたが、

親が希望していた大学には行けるはずもなく。

しかも、高校3年のとき、父親が鬱病にかかり、

仕事が出来ない状態に陥ったため、

高校の進路指導で急遽就職にシフト。

進学校に就職先があるはずはなく、

やむなく5流くらいの、しがない製紙会社に就職します。

 

社会人生活も板についてきた頃、

ようやく自分の夢みたいなのを見つけた私。

親に超特大の説得を試み、しぶしぶ認めさせ、

職業訓練という道を選んだのが二十歳の時でした。

多分これが親に認めさせた最初で最後の要求だったと思います。

ここで今の趣味の前身であるパソコンと出会い、

ブラインドタッチ、必死こいて習得し、

プログラマーの道を選び、修了式過ぎてから再就職が決まります。

ただ、学費については親は出してくれず、

教材費も学費も後に購入することになるデスクトップパソコンの購入資金も、

全て自分の貯金&失業保険の給付金から出しました。

 

プログラマーしてた頃。

今は超大手のパチンコ店(名前晒すとマルハン)から

システム構築の仕事が舞い込んで来ました。

で、パチンコとは何ぞやというお勉強をしたのですが、

ここで何かの悪いスイッチが入ってしまい、

その後20年はどっぷりと嵌るきっかけとなった、

パチンコ店に入り打ち出すと…

 

見事ビギナーズラックで勝ってしまいました。

 

当然嵌りますよね。もっと稼げるんじゃないかと。

はい、またも悪夢の始まり。

貯金は全て使い果たし、

通帳もキャッシュカードも親預かりに。

一応親からお小遣いもらうものの、

おやつ代以外はほとんどギャンブルに。

たまにしか服とか買わなかったです。

一日に40諭吉(当時は聖徳太子だったかな?)使った日もありました。

初体験、遅かったです。28歳の時でした。

同じ県の違う地方の男友達と。

エッチの味を覚えてからは、お小遣い足りなくなると円光に。

まあ、当然の流れっちゃ流れ。

そんな中、当時のテレクラ(今で言う出会い系サイトとか、出会い系SNSとか)で

元旦那と知り合い、式もあげずに入籍。

元旦那、借金&暴力&女装子という、悪魔の三拍子揃った奴でした。

付き合ってるときは普通の男性の仮面被ってました。

当時既にブラックリスト入りしてた元旦那。

私の名前で借金こしらえて、

そっち系の雑誌の文通コーナーに友達募集の広告を出し、

引っかかったのが地元の性同一性障害当事者。

最初は私抜きで会っていたみたいですが、

私も会いたいと元旦那に駄々をこねて、

3人で会って、その日の夜、富士川の河川敷で、

3人で事に及んで…

そんな折、右目網膜はく離で眼内レンズ入れる大手術。

右目の視力、失明しなかっただけの状態になりました。

そんな折、息子の妊娠発覚。

既に2回妊娠→中絶していたのと、

気付いたのが既に妊娠中期だったこともあり、

元旦那に子供をとるか借金を取るかの2択を迫りました。

子供とるなら自己破産。借金取るなら中期人工中絶。どっちかにしてくれと。

元旦那は子供をとりました。

それがきっかけで二人揃って自己破産申請。

私はすんなり免責まで通りましたが、

元旦那はやっぱりというべきか

免責不許可事由にひっかかり、

免責は私より3ヶ月遅れて通りました。

 

なんだかものすごく長くなりそうなので、

ここで一旦ブレイクタイム。

続きはまた改めて書こうと思います。