最近読む記事や文庫には、
「ゆとり教育の失敗」の文字がくっきり印字されている。
文部科学省の新カリのパンフには、
「理念は変わりません。変わるのは…。」
えっと、変わるのは何だっけ?

とにかく、小学生で英語を勉強し、
中学生・高校生の数学・理科(理系科目)の時間増。
平成元年告示のカリキュラム以前の内容に戻ります。
その間に公立の学校は、
完全週休2日(週5日制)になりました。
それで時間増ですから、時間割担当教員の苦労が忍ばれます。

まあ、20年来のゆとり教育が見直されたの事実です。
「理念は変わりません」は、ほぼ負け惜しみでしょう。

でもここで論じたいのは、そういった一般的な評価ではなく、
「ゆとり教育、カリキュラム3割削減の教育」を
受けた子ども達の現実です。

9年ぶりに中1の担任になりました。
毎年中学生を教えていますが、やはり担任は違います。
生徒の声が良く聞こえてきます。

数学についての生徒の声は、
「むずかしい、幾何。
 また、グラフって何?」
近年、横軸と縦軸を混同する中学生が増えた、
という報告がありました。
関係ないかも知れませんが、
スポーツ大会のリーグ戦の表の記入ミスも相次ぎます。
基準が不明確なのでしょうか?

高校生は、論理に弱くなりました。
論理といっても、そうたいしたものではありません。
三段論法も難しいようです。
幾何の証明なんて∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
高校入試で幾何の証明を出したら、
大変なことになるでしょう(いや正確には、なりました)。
「定理」さえ、理解していないでしょう。

個人的には、「新しい学力観」で、
意欲・関心・態度なんて評価することにするから、
「質実剛健」の対極な態度、
「見た目重視」の風潮になったと思っています。

「生徒目線」って言葉も流行りました。
じゃあ、それまでの教育は何だったのか?
なんでも「団塊ジュニア世代」の受験戦争の反動での、
「新しい学力観」だとか。
オイオイ、俺らじゃないか、その世代。
校内暴力、その反動の管理教育、いじめ、
不登校(以前は登校拒否)、云々。

180°方向転換の政策の結果、
あの学力観提示の20年後、
こんな教育バッシング、教員バッシングの世の中になっているなんて。

ゆとり教育の結果、子どもは図形とグラフの力を失いました。
教員は権威を失いました。
そして若者は希望を失いつつあります。
今度、どんな光が訪れるというのか。
最近は学生の売り込みも多く、
「貴校で教員の募集はありますか?」
という電話も少なくない。
聞けば、ずいぶんと苦労して教員免許を取得したようである。

そういえば青年海外協力隊で、発展途上国の先生になって、
あらためて教員免許を取りに行ったOBの話も思いだした。

「数学の教員になろうかと思っていますが、
 物理学科でも免許は取れるので、物理学科に行こうかと思います。」
と高3当時の担任の先生に相談したら、反対された。
「数学の教員になりたいなら数学科行きなさい。
 物理学科に行ったら理科の教員になりなさい。」
と言われた。
どうして?、とは聞き返さなかったが
「そういうものなんだ。」
と思い、いくつか併願したが、
「物理か数学科か」は受かった大学で決めようとした。

最近はその答えは解ってきたところがある。
「生徒は、
 数学が好きで、この面白さを教えたいと思っている人に習いたい、
 そう思っているにちがいない。」
と考えるからである。
いろいろな経験を積んで、迷った結果に「数学の教員に」
というよりも、専門バカでもいいから、
「数学一直線」の人間に教壇に立ってほしい。
あとは、「子どもが好きか」どうか。それが大事。

だから、このブログを読んでいて、
これから私学の専任教諭・非常勤講師の応募に申し込もうと
している人がいたら、
「自分が面倒くさいことに耐えられるか、
 子どもの意地悪にも耐えられるか。」
を自問自答してほしいと思います。
もちろん、子どもは素敵な笑顔を見せてくれますし、
彼らともかけがえのない思い出は出来ますが、
特に中学生の後半は多感な時期を迎え、
反抗的な態度を見せることも度々です。
「それでも、子どもを信じられるか、どうか。」
その辺の忍耐力の有無が適性の分かれ目だと思います。

また、数学の教員になろうとする人は、
迷うことなく、数学科に進んでほしいと思います。
一時期、不人気で、数学科の名称から、
「数理科学科」とか「情報数理科」とかに名称を変えたようですが、
とにかく、そこに進んで、純粋数学も学んでほしいと思います。
僕自身も、
「もう純粋数学にはコリゴリ。流行りのことを学びたい。」
と思いましたが、やはり古典は大事です。
「数学が役にたつか。役にたつ数学は何か。」
と言うことばかりでなく、
「数学とは何か。」
ということにも視野を広げてほしいかな、と思います。

また教師になろうとは思っているけど、科目は何でもいい、
と思っている人、それは要注意です。
何でもいいから、専門科目を決めてほしいと思います。
最近の大学では、リベラルアーツとか主専攻・副専攻とかあるようですが、
「広く、浅く」は厳禁。
なにか1つはこだわりも持って勉強してほしい、と思います。
確かに教員の仕事は多岐にわたるので、
いろいろな知識が必要ですが、
教員の仕事の主は、教壇に立つことです。
自信を持って教えられるモノがないと、子どももあなたも不幸になります。
自戒を込めて伝えます。
教師の専門性は大切です。

またちょっと押しつけがましいですね。

教員をしていて残念なのは、
ハイテクあるいは最先端から取り残される、
ということである。
私たちは、人類普遍の財産を後進に伝えることが仕事である。
だから、最先端のことを教えるのではなく、
どちらかというと、古典を読み解き、
そこにある熱意や創意工夫を伝える、ということが多い。

中学3年生に教えるピタゴラスの定理の成立は紀元前後、
高校3年生に教える微分積分ですら18世紀ごろの成立。
社会科学や現代文でポストモダンとか言われても、
高校数学はモダンですらない。
ベクトルと行列くらいか、モダンなのは。

学会から高校生向けのチラシが来たので、
生徒の目に付くように掲示した。
その隣にはロボット工学のチラシが。
新聞をひろげれば金融不安のニュースが。
どちらのこともよくわからない。
どういう仕組みなのか、どうすればよいのか。

高校時代の友人は、レインボーブリッジを建てた会社に就職し、
いまどこかの国で大きな建築物を建てているらしい。
ちょっとだけ、スケールがでかいことが羨ましい。

今の自分の仕事を誇りをもってやっている。

しかし、あるコミュニケーションの場で、
実はどれだけ「教育」に対して無知か、
ということを思い知られた(気がする)。
失礼だが、時代の流れに敏感で、
保護者の立場に立てる同僚でも「?」と思うことがある。

その直後、ふとした暇に「教育原理」のテキストをひろげた。
また、ペスタロッチが何を言ったとか、
デューイがこうしたとか、たくさん書いてあった。
あいかわらず、「で、なによ?」

学生も教える側の教授も、
もう少し丹念にその精神性を読み解く、
そしてそれが現実的にどういう意味を持つのかを考える、
そういう時間が必要だったのだなあと感じた。
大学の教職課程は、
「なるほど」と思えることが少なくてつまらなかったことも思いだした。
ヘタをすれば、教員免許も持っていない、
教育実習も行っていない教授が教えていることもその一因だろう。

一方で、古典の教育原理に書いてあったようなことを、
先日、外部のスタッフの方に教えられた。

「どれだけ待てるか。どれだけ気づかせてあげることが出来るのか。」
その引き出しを多くもつこと、
言葉や気持ちをかけてあげられるかが、
教育の本質ではなかったか?

それは私たち、現場の教員にしかできない、かけがえのない仕事である。
目の前の子ども達こそ、未来なのだから。
ハイテクの開発だけが、最先端科学ではない、とも気づかされた。
国の政策がおおかたまちがっていても、
政治家がアホで暴言出まくりでも、
官僚が省益優先・自己保身で、権限悪用の後天下っても、
それでも市民はしぶとく生きていくしかない。
とりあえず訴えることは訴えてといて、
あとは自分の仕事を頑張るしかない。

昨日、私の机の上にあったチラシには、
「もしもわが子が医学部に行きたいって言ったら…。」
って書いてありました。
なるほど、格差社会を象徴したコピーだ。

「もしもわが子が東大に行きたいって言ったら…。」
これは別にいいか。東大は国立大学だから学費は高くない。
かかるとしたら下宿代。
寮費の安い学生寮も探せばあるだろう。
問題は私立大だな。医学部なんて言ったらヽ((◎д◎ ))ゝ

やっぱり「子どもの教育に金がかかる」なんてまちがってるよな。
戦後日本のまちがった政策だよ。
極めて貧しい国だったろうから、敗戦で、
仕方がない政策だったかも知れないが昭和も終わり、
いまは平成。
地方は未だ貧しいかも知れないが、中央は違うだろ?
税金を無駄に使うくらいなら、
子どもを成人させるまでの何かの施策に金を使え。
それが国益にもなるだろう。
教育は未来への投資。
人材こそかけがえのない資産。
とくに地下資源に恵まれない日本においては。
また愛国者でもないのに、憂国しちまった(*´Д`)=з
とにかく、「先生という仕事を、オレは頑張るよ。」
ッて言いたかったのさ。(^-^)ノ~~
格差社会。低賃金・長時間労働・雇用不安定で、
第2次ベビーブーム世代の雇用状況は最悪。結婚も出来ず。
患者はたらい回し。重病の妊婦、残念ながら死亡。痛恨の極み。
子どもの教育には金がかかる、との報道。
教育にまで「受益者負担」とはいかがなモノか。
保護者の収入が、その子どもの未来まで決定するような世の中に。
これは違憲ではないのか!
小児科医の過労死。二審は棄却。
「医者になんてなるもんじゃない」と悲しく、娘に訴えたとか。
涙の原告側。
年金はあいかわらず「国家的詐欺」の様相。
「国家的詐欺」は法科大学院制度もか。
高学費で高リスクでは、誰も法曹界に行かないのでは?
一方で、官僚も就職先としては人気低迷。
収入は高くないし、天下りは出来なくなるし。若者に魅力なし、とか。

今日一日の朝刊だけで、これだけの暗闇が。
こんな国に誰がした!
最近は行事やら定期考査やら、部活動の大会の引率で
休みなしの多忙の極み。Y(>_<、)Y。
ブログを書く暇もありませんでした。
というわけで、ごぶさたです。マスター・ロベルトです。

しかし、天気が良い中の行事のなかで、笑顔の中学生の姿を見て
またこのブログで、自分の半生を振り返って、
(数学を勉強してみたいと思った頃、
 大学を中退しようと思ったこと、
 就職雑誌「テクノロジービーイング」を買って虚しくなったこと、
 クラブ活動(サッカー)に夢中になりながらも腰のケガで、
 大学での本格的なサッカーの継続を諦めなければなかったこと。)
あらためて自分が、そのときそのとき、真剣に考えて、
現在の職に就いたことを思いだした。
そして確信をもった。

ほんとにこの世は(現在の日本は)、子どもが健全に育ちにくい。
中学生を取り巻く社会状況も厳しい視線にさらされている。
それでも彼らも僕らも歩み続けるわけだが、
子ども達の笑顔を見ていると、「そんな世間がどうした!」
と元気になってくるから、不思議である。
行事を手伝ってくれた外部スタッフのエネルギーにも教えられた。
「どれだけ、こどもの行動や助け合う声を待てるかですよ。」

子ども達だって、真っ直ぐ育ちたいと願っている。
そうに違いない。
それでも、非行に走らなければならないのは、
社会がまわりのコミュニティーが彼らをゆがめているからに違いない。

他人のせいにばかりはしていられない。
自分はこれまで教師として、しっかりと後進を育ててきただろうか?
最善を尽くしてきただろうか?
毎日、数学と向き合ってきただろうか?
面倒くさくなって、適当に教えてきてはなかったか?
今の状況から逃げ出そうとしていなかっただろうか?

そう、僕がいま目指すのは、ノーベル物理学賞でないことを思いだした。
Jリーグの監督でもない。
僕は生徒から信頼される、数学の先生になりたかった。
そして未来に貢献したかったのだった。
さあ、いまから頑張ろう(*^o^*)/~
今朝も起きて、新聞をひろげるとビックリ!
「ノーベル化学賞、下村氏」の報道がヽ(*'0'*)ツ
ノーベル賞、同時に4人も。
おめでとうございます、下村さん。m(_ _ )m

理科離れとか、数学離れとか報道される昨今、
一方で、テレビドラマ「ガリレオ」の影響か、
「理系君」がもてはやされる風潮もあり、混沌とした世相。
それでもやっぱり、「新発見の偉業」には皆が賛辞を送る。

進みすぎた科学は、
ハイテクとして生活のすみずみに入りこんでも、
そのシステムや機械の動く理由については、
もはや中学校や高校の勉強で理解できるレベルではない。

本日も、先日の素粒子理論について、
前ノーベル賞受賞者の小柴氏と
今回の受賞者小林氏の対談が掲載されていたが、
「超弦理論と重力理論、
 統合を目指すにはニュートン力学との決別が必要かな。」
と書かれていた。
極小の世界とか、宇宙の果てでは
偉大なるニュートンの業績も超克されるのか。すごい話だ。

昭和から平成に代わる頃、
片田舎に住んでいたロベルト少年は、
腰のケガでサッカーの継続を諦めた頃、
物理への興味が増していた。
その思い出が、
新聞のセピア色の写真の向こうに透けて見える。

そういえば、大学生のとき、
数学科で主専攻は解析にした。
「もちろん、解析だよな?」
とほんのちょっと顔見知りになった級友にいわれ、
「もちろんだよ。」
と即答し、同じ研究室へ。

しかし、その後、その勢いはどこへやら。

買ったオートバイのローンの返済に追われ、アルバイトの日々。
学生の本分である学業は、どっかに行ってしまった。

こんなこともわすれていた。
現在の勤務校にきてまもなく、
現在かなり尊敬しているG先生に、
「ロベルトさんは解析でしょ?」
「どうして、そう思いますか?」
「細かいことはどうでもいいって感じがする。」

そのとおり。
場合分けとか、論理の厳密さって、けっこうどうでもよかった。
(集合がどうあって、積分して、
 あるいはこれが何とかの積分方程式で、とか。
 もうほとんど忘れたが、
 バナッハ空間という名称だけは覚えてるな。)

そう、思いだした。
また、もう後悔はしない。
あのころ、僕は応用数学に興味があった。
その先には、理論物理の地平が見え隠れしていた。

新聞の白黒の写真には、
その功績がこれから賞される科学者の若い頃と、
方程式や行列、同相を表すような、
数式とも記号とも見分けがつかない文字の羅列が。

神が作ったという自然の法則は確かにあり、
未解明のものがほとんどなのに、
それを利用して生きている私たち、人間。
自然の法則を解明しようとする姿もまた、美しい。

ノーベル賞、ありがとう。
(ノ゚ο゚)ノ日本人3人、ノーベル物理学賞、受賞!
しかも素粒子理論。
原子核までは高校の物理の授業で習ったが、
クォークについては、
「クォークは3つがくっつくと、クォーク2個分の質量になる」とかで、
?の世界( °д°)。

今朝の新聞を読んでも、素人にはほとんど不可解なミステリー。

それでも実は、高校3年のときの担任が物理の先生だったので、
進学は数学科か物理科か迷ったくらい、興味があった。
最近の、ヨーロッパでの粒子加速器での実験も気になっていたところだ。
いまあらためて自分の志向を考えると
やはり根源的なものへの興味があるのだなあ、としみじみ思う。

それにしても、究極の、極小の粒子の理論が、
宇宙誕生(ビックバン)の理論と双対になっているとは、
また、まか不思議。
理論が壮大ですね。

とにかく、
南部氏、小林氏、益川氏、受賞、おめでとうございます。
今後、また若者がそれに続くように努力するのもまた、すてきなこと。
それも望みます。

それにしても、ノーベル賞を獲る人って、エネルギッシュっていうか、
背筋がキリッと伸びていて、いいなあ。
今日のニュースで、
「いちご研究所」なるものが設立された、と報道されていた。
私の生家でも、いちごを栽培し、果実を収穫し、出荷していた。
秋から冬にかけて、
母が(父も力仕事は手伝って)いちごのハウス栽培をしていた。

先日、自分の半生を嘆いているようなことを書いたが、
いまは、それをとても悔いている。
いちごの映像を見たとき、それはいっそう強くなった。

幼い頃、出荷できないふぞろいな苺たちは、
夕食後のデザートとして、私たちの目の前に置かれた。
最盛期の1月から2月になると、コタツのテーブルに置かれる苺の量は、
おそらく、このブログの読者の想像を超えている。
なんせ、育ち盛りの男兄弟が束になっても食べきれないくらい、
大きな皿に盛られているのだから。すさまじい量だった。
苺好きな方は、もうヨダレがしたたるのでは?

決して裕福な家庭ではなかった。
むしろ、貧しい方だったと思う。
でも、寒い冬でも、ひもじい思いはしなかった。
幸せだった。

いまの自分に至るまで、
僕自身、努力は重ねてきたし、
父や母は無理をして、僕を東京の大学へ送りだしてくれた。
大学時代の不勉強は、いくら後悔しても取り返せない。
また、いまの職場でも、
最初の数年は数学に対して怠慢だった、と思う。
それでも、日々できる限りのことはして、
そのときそのときベストの選択・判断を重ねてきた。

目を閉じると、
あたたかな思いが広がる。
おいしい苺と優しい母の笑顔。
テレビドラマから飛び出してきたような、熱血な小学校の先生。
おしゃべりが上手で、笑いが絶えない、塾の数学の授業。

そういえば、あの塾も、いま思えば、プレハブの建物だった。
冴えてるジョークが最高な数学教師は、塾長の実弟で、副塾長。
冷静でニヒルな塾長は、いつも最後の授業で生徒を泣かすらしい。
不覚ながら、それを知らなかった私は、やはり泣いた。

貧しいくても、ボロッちくても、
そこは、ときに熱く、いつもあたたかだった。
僕はそういうところで育った。
それは恥ずべきことではない。
先日は、ホントにつまらないことを書いた。
才能と環境に恵まれる生徒に嫉妬し、自分の半生を後悔するなんて。
なんと意味のないことだ。

アメリカで頑張っている教え子がいる。
親の仕事の都合で転校していったが、
自分の才能に気づかせてくれた人がいたようで、
現在はその才能を活かし、奨学金で大学に通っている。

久しぶりの帰国の際に、話に花が咲いた。
それにしても凱旋である。
「どうしてうまくいったと思う?」
「僕は、アメリカ社会にadaptしましたから。」

アダプト。適合ということか。
成功するときには、
やはりその社会・文化・文脈に適合する必要はあるのだろう。

思えば、自分も「ここに適合しよう」と無理に、
自分を合わせたきたところがある。
大学院に入った後、就職した後。
「自分らしく」というより、「どうすれば自分が評価されるか。」

よく考えれば、それほど意味のあることではないが、
(なぜかというと、それぞれの場所は
 「私を評価してくれて入れてくれた」わけであるから、
 期待に応えようとするのは良いが、
 その組織に自分を合わせよう、というのは、
 採用してくれた側からすれば、
 「それは本末転倒」とも映ることである。)
若い時分は、おうおうにしてそういうことが多いだろう。

逆に今は、無理に他に合わせようという生徒を見ると、
「無理に適合しようとしなくて良いんだよ。
 自分は自分らしく。」
というようにしている。
(もちろん学校生活のことをいっているわけではない。
 学校生活のルールは守ってもらわないと困ることは多い。)
何が好きか、何を勉強したいか。
何を優先したいのか、勉強・クラブ・ボランティア?
放課後は、何を一番したい?
サッカーなのか、将棋なのか。

一方で、すでに有名大学への合格を目指し、
評判の塾に通っている生徒もいる。
運動能力・運動習慣に欠けるところが目立つが、
それが彼の人生なら仕方ない。
でもそれは彼自身が望んでそうしているのか?
保護者と話している限りはそうは思えない。

先日の夕刊の記事はショックだった。
現在、世界経済は深刻な状況なようであるが、
その最前線で働く有能な人が、仕事の後や週末に、
絵本セラピーなどを受けているというのである。
心の中のほんわかとした何かを感じると、
リフレッシュされるようである。

社会に適合する必要はあるだろう。
それに懸命にならなければいけない時期もある。
僕にもあった。
でも自分のネイティブなものに正直であってもいいだろう。
ときには、自分は自分らしく。
何かを見失わないように、大事な何かを。

さあ、また来週、頑張ろう。('-^*)/