どこまで言葉で説明すべきか | ボーカロイド制作日記 by mash01(おっホイP)

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弱小ボカロPであるmash01(おっホイP)のボカロ曲制作日記。
曲の制作状況や解説、ときどき愚痴や毒。

アニメ『小市民シリーズ』、変わらず楽しく鑑賞していますが、最新作『シャルロットだけはぼくのもの』を見て少々思うところがありました。

原作の小説は小鳩くん視点の一人称で描写されていて、モノローグも多いのですが、アニメではそれを完全に排しています。
そのため、心理描写が饒舌かつ冗談めいていて少々ウザいくらいな原作に対して、アニメは非常に落ち着いて静かな雰囲気。

それはそれで良いと思っているのですが、今回のようなストーリーではそれが仇になっていると感じました。

お祭りに「自転車で来た」という小佐内さんの嘘を見抜く推理や、「砂糖を膨らませた綿菓子に、自意識が肥大した自分たちを重ねる」という心情は、モノローグなしでは表現が難しいだろうな と予想していたところ案の定カット。少々残念。
シャルロットの戦いは心理描写を完全になくすとストーリーが成立しないので、ひとりごとと文字表示で代用していましたが、ちょっと苦しいかなあ。

モノローグによる心理描写がないことは、キャラクターがよくわからないと感じる人を多く生んだ原因ともいえるでしょう。
私は原作を何度も繰り返し読んでいるからわかるけれど、未読だったらわからないかもなあ と思うところは多いです。

しかし、『シャルロット~』をモノローグなしで構成するのが難しいことは企画段階でわかっていたはず。
また「第二期で『秋季限定栗きんとん事件』をやるつもりだよ」と匂わせているふしもあるのですが、こちらにもモノローグがなければ成立しないエピソードがあります。
なのになぜ、このようなチャレンジを行ったのでしょうか?
「わたし気になります。」

「僕が思うに、これは他作品の参照で片がつく。」

参照するのは『推しの子』。今期アニメ放送中のあたり。
漫画家アビ子先生は自作品の舞台化にあたって、脚本に「道端で心情をベラベラ喋ってきっしょい構ってちゃん集団になってる!」と不満を抱きます。
心情を台詞で説明することへの違和感を持つわけですね。

それは漫画と舞台という媒体の違いが生んだことでもあります。

『小市民』の小説とアニメという違いも然り。

大量のモノローグは小説だから成り立つ。

そして、アビ子先生と脚本家のGOA氏が徹夜オンラインミーティングで「なんだか楽しくなっちゃって」作り上げた改訂版は、「説明台詞がゴリゴリ削られた、役者の演技に全投げのとんでもないキラーパス脚本」。
プロデューサー雷田氏がいう「尖った作品だが、上手くハマれば凄いものになる」脚本。

「役者の演技に全投げのキラーパス脚本」は、「観客の理解力に全投げのキラーパス脚本」でもあります。
わからない人にはわからなかったり。

注意深くじっくり見ないとわからなかったり。

 

映画などでも「状況や心情を台詞やモノローグ、ナレーションで説明することは下策」という考え方があります。


私が昔見た映画の例ですが、モノローグでの説明がやけに多くて、しまいには泣いているシーンで「私は泣いた」というモノローグ。言われなくても見ればわかるわ!


これは極端な例ではありますが、「なんでも台詞やモノローグ、ナレーションで説明してしまう映画」ってのもままあるもの。

わかりやすく伝えようとするあまり、ついつい説明台詞が多くなってしまうのも創作あるあるなのでしょう。
 

個人的には、心情のすべてを台詞で説明する作品というのはつまんないと思います。
どこまで言葉で説明するか、その見極めも創作の重要なポイントなのですね。

これは作詞にもいえること。
私の作る歌詞はさほど難解なことはないと思いますが、あまりにも単純すぎる歌詞は作っていてつまんない。
「わかりやすすぎず、わかりにくすぎず」のバランスを考えるようにしています。
 

その手段として、暗喩を多用したり、まわりくどい表現にしたり、ストーリーの中に心情やメッセージをひそませたり、そのものズバリな言葉をあえてつかわないといった枷をはめたり。

音で心情を補完することもあったりします。
それがうまくいっているか、ちゃんとリスナーさんに伝わっているかは、自分ではわからないのがもどかしいのですけれど。

たとえばこの2曲。2020年の作。


 

当時真っ只中だったコロナ禍の歌なんですが、直接それとわかるフレーズを使わず、「そうなのかな?」と匂わせるように作ったつもり。


そういうチャレンジもまた創作の醍醐味。
わかりやすさを犠牲にすることもありますが、表現者のエゴではありますが、そこはまあ大目に見ていただきたいと思う次第です。

 

『小市民シリーズ』の脚本家さんたちも、表現にあえて枷をはめることでチャレンジングな創作を行おうとしているのだろう と想像して、「それもまたよし!立派な志よ!」というスタンスで鑑賞しています。
 

(でも、モノローグを完全に排するより、ちょっとくらいは入れたほうが自然なんじゃないかな? ← 本音)