「演者が消える」仕事を | やせ我慢という美学

やせ我慢という美学

夢はきっと叶う ひとつだけきっと叶う
そのために何もかも失ってかまわない
それほどまでの夢なら叶う
一生にひとつだけ
夢はきっと叶う 命も力も愛も
明日でさえも引き換えにして きっと叶う

時々、己への自己嫌悪で発狂しそうになる。今日も、だ。こちらのミスとはいえ、ペコペコしすぎる自分に腹立ってきた。

例えば担当する行政部署へ連絡する。お金に絡む事案が多い。僕の不用意な一言で組織に不利益があっては申し訳ないから感情を制御して冷静に冷静に話をする。

僕より年長者など役所にはいない。年端もいかない職員さんにバカ丁寧に気を使いながら、すぐばれるような笑い声などはさみながら電話をする。これを切った後、辛い。もうアホを演じるのは疲れた、と真剣に思う。どうしてこうも卑屈になって上からしゃべってくる若造にペコペコしないといけないのか、と疲れてしまうのだ。ほとんどの役人は公人としての本来の役割通り親切で丁寧で誠意を感じてはいるが、中には例外的に「上」からしゃべってくる。先日も相手の話している意味が分からなかったので「すみませんがもう一度お願いします」と言ったら「人の話をよく最後まで聞いてくださいよ」と言われてしまった。『すみません、頭悪いんでごめんなさいね』と返事した。そんな自分が嫌だった。ここまで卑屈になって組織を守りたいと思っている自分がみじめになることが多い。

僕が守ろうとしているのは目先の利益だけではないのか、と思う。たぶんそうなんだ。自分自身の中に輝く誇りがあるなら相手がどんな立場の人であろうと気を使うことなどしなくていいんだ。

 

名人の域に達した落語家の芸を見て「演者が消えて登場人物が一人で歩き出しているようだ」というような表現で讃えられることがある。

舞台上の演者が消える。聞き手はその話の世界に入ってしまって演者が視界からものの見事に消えてしまう…僕もそんな仕事がしてみたい。

マツモトが消えてぼくの仕事だけが見える。それがどういう状況を指すのかまだよくわからないが、実はそういう仕事こそが本当の仕事というんではないのか、そう思うんだ。自意識過剰にならない。

消える松本、消えるスタッフ。そこには利用者だけが動いている。

「自分にとってこの仕事の意義は、とか、意味は」なんてことは考えない。

マツモトがやった仕事ではない。そうではなく松本の体を借りて誰かが勝手に動いている、そんな消え入るような感覚って必要だ。特に自分には。

相手によって話し方を変えたり、態度を変えたりしているとどんどん魂が薄くなってくる。いい仕事ができなくなるに違いない。

 

僕が差し出せるのは命だけだ・・・その覚悟ができて初めて演者が消える仕事の領域にたどり着くような気がするんだ。