明治21年に設立して、明治40年の鉄道国有法により解散した、明治時代の五大私鉄の内の一つである旧関西鉄道。わずか19年間で、名古屋から大阪を結ぶ一大路線を造り上げた、一民間企業であった。
その中でも、当時の技術力では最も困難な工事と言われた、加太隧道(トンネル)の建設に興味を持った。
それまでのトンネル施工は外国人技術者の力が必要であったが、加太トンネルの建設前くらいから、ようやく日本人技術者のみで工事を行えるようになってきた。とはいえ資材や材料はまだまだ外国産がほとんどであり、日本人技術者や経験豊富な作業員も少なく、本当の黎明期であったようだ。
加太トンネルは延長929m(諸説あり)であり、柘植駅から加太駅方面へ2.5‰の片勾配であった。当時としては、かなりの長大トンネルであったので、建設の工夫として中間あたりに竪坑を設置する事にしている。
トンネル工事で竪坑(シャフト)を利用したのは、大規模工事としては琵琶湖疏水第一トンネルが最初であり、田辺朔郎博士が主導したことで有名である。明治初期から始まった鉄道トンネルに関しては、竪坑を併用した工事はまだ誰も行っておらず、日本初の挑戦であったようだ。
長大トンネルにおいて、竪坑利用が得策なのは、トンネル掘削をする切羽(工事場所)が4か所に増える事にある。
普通のトンネルは、山岳の両端からのみとなり、合計2か所の切羽である。それに、竪坑を追加すれば、そこからも左右にトンネル掘削が可能となるので、合計4か所の切羽となる。つまり、竪坑を設ける事により、1本のトンネル工事が2本のトンネル工事に増えるという、マジックみたいな話である。
この竪坑を設ける最大のメリットは、建設工事期間の短縮である。単純に言えば2年かかる予定の工事が、半分の1年で済むということであろう。
しかし、竪坑の話はそんなに単純では無いようだ。竪坑の施工技術は、大昔から佐渡銀山や石見銀山などの鉱山で使われていた。だが、それらは小規模なもので、本格的な竪坑では無かった。また、鉱山は良好な岩盤であり、固い反面掘り易かったのだろう。
また、トンネルの竪坑を設ける場所の地質が悪い事は、予想が可能である。山岳の最も低い谷筋などは、そこが弱いから徐々に侵食されたわけであり、”地質が悪く”、”水も多い”であろうし、”破砕帯”の可能性も高いようだ。(ブラタモリより)
その様な、関西鉄道の加太トンネルであるが、工事にかかる時には近隣の琵琶湖疏水第一トンネルも終盤を迎えていた。よって、かなり工事の参考になったようである。
両者のトンネルの規模を比較してみる。縦方向の縮尺は異なるが、横方向の縮尺は、ほぼ同じである。
加太トンネルの竪坑跡が現在も加太峠に残されている。行き方は、とても簡単である。グーグルマップを見ると、現在のJR関西本線の加太トンネルが点線で表されているので、そこに直行する道路沿いにある。
<三重県伊賀市柘植町 34.839176, 136.284010>
道は意外と広いので、路上駐車させていただこう。
そこから、杉林の中を歩いて30mくらいに竪坑跡がある。
背面の山を登ると、その全貌がよくわかる。形状は楕円形で、コンクリート製の蓋であった。
この竪坑は、工事完成後も蒸気機関車の排煙用の竪坑として活躍していたのだろう。その後、蒸気機関からディーゼル機関車へ移行したのに伴い、排煙の必要性が無くなり、蓋をしたのであろう。
竪坑跡から30m程度離れて、煉瓦製の煙突と暗渠が残されていた。
煙突跡は、完全に廃墟化されてはいるが、立派な鉄道遺産である。
煙突跡であるが、イギリス積みの煉瓦構造物であり、頂部の装飾が素晴らしい。鉄道トンネルとして初めて採用された、竪坑を利用したトンネル掘削工法なので、見学者の目も意識した素晴らしい意匠であった。
山深くで手入れもしていない煉瓦構造物である。老朽化がかなり進んでおり、レンガなどが散らばっていた。煉瓦の刻印も確認することができた。バームクーヘンを切ったような刻印であったが、それがどこのものかを証明する資料は見つからなかった。
ここの遺構の全体像を確認する。竪坑跡(コンクリート蓋)と煙突跡の離隔は30m程度あり、その間には暗渠と、煉瓦構造物の破片が散らばっていた。
さて、加太隧道の竪坑付近にある煙突跡であるが、何の遺構であろうか。それを明確に記載した当時の文章や報告書は無いようである。よって、推測として2つの説が発表されている。
1)蒸気機関車の排煙を外部に出すための煙突説
2)ここで煉瓦を焼いて造っていた説
ただ、私は残された遺構の状況を現場で十分に確認して、琵琶湖疏水の竪坑の図面等を見比べた結果、第3の説を提案したい。
3)トンネル工事中に使用していた、機械類を動かすボイラーの煙突
何故、定説以外の意見を勝手に言い出したかを書き出してみる。
現地の寸法を、測ってみた。竪坑と煙突の距離は30m程度離れて造っている。煙突の向きと竪坑の方向を見ると、両者が関係していたのは間違いないであろう。
これが、蒸気機関車の排煙を排出するための煙突ならば、これだけ離して設置する必要性は無いと考える。それこそ、竪坑の上部に煙突状の物体を継ぎ足せばいいのではないだろうか。頂上でわざわざ折れば、換気がスムーズにいかないであろう。
琵琶湖疏水の竪坑は、その直上に換気用に煙突状に煉瓦構造物を突き出していた。
琵琶湖疏水の第1竪坑(左)と、第2竪坑(右)の煙突
以上より、1)蒸気機関車の排煙を外部に出すための煙突では無いと考える。
次に、現地で煉瓦を製造していた説であるが、加太隧道では300万個の煉瓦が使用されたと文献に残されている。それらの一部でも、ここで製造したとは考えにくい。
また、竪坑で最も恐ろしいのは、煙が内部に入り込んでの酸欠事故ではないだろうか。もし、煉瓦工場を造るなら、こんな近傍には造らずに、竪坑からもっと離して造るだろう。また、煉瓦工場と一口に行っても、原材料置き場、乾燥炉、完成品置き場、燃料の保管場所等を考えると、かなりのスペースが必要なのは間違いない。それも、合計300万個である。
よって、2)ここで煉瓦を焼いて造っていたということは、ありえないのではないか。
ここで、琵琶疏水の建設時に造られた煉瓦工場を参考に、加太トンネルで必要だった煉瓦の生産能力の検討をしたみた。
加太隧道の煉瓦による巻き立て工事は、貫通後に約1年かけて行っている。
そこから、煉瓦の製作期間を15カ月と仮定する。
使用煉瓦を300万個とすると、月に20万個は造る必要性があった。
それに対応可能な工場規模を推測してみる。
見本となるのは、琵琶湖疏水の為に建設した煉瓦工場である。
そこの生産工場のデーターを整理してみた。
琵琶湖疏水煉瓦工場 (かつて、地下鉄京阪御陵駅入口付近にあった)
月産35万個(明治19年7月~明治21年10月の39カ月で1370万個製造)
構造規模 敷地13,471坪 工場10棟・窯場3棟 窯12ヶ所・煙突8基(京都市HPより)
よって、加太隧道で必要な煉瓦製造規模は月産20万個で、琵琶湖疏水の煉瓦工場は月産35万個であった。
つまり、加太隧道で煉瓦を供給しようとすれば、琵琶湖疏水の煉瓦工場のおよそ半分の規模が必要だったと言える。
乱暴な検討だが、琵琶湖疏水の煉瓦工場の煙突は8本であり、加太隧道の横にある煙突は1基である。
よって、加太では35万÷8=約4万個の生産能力と言えよう。
以上より、加太の竪坑横の煙突で、煉瓦を生産ししていたという事はありえない事だと思われる。
ここまでは想像できたのであるが、肝心の加太隧道の文献が見つからない。そこで、琵琶湖疏水工事図譜(明治24年 田辺朔郎著)及び京都市上下水道局のホームページからヒントを得て、考えてみる。
当時の琵琶湖疏水第一トンネルの竪坑に、煙突があるスケッチが残されていた。
また、竪坑平面図には、竪坑から少し離してボイラと煙突の表記があった。
以上から、加太隧道の竪坑には、竪坑へ資材を上げ下げする動力や、水中ポンプなのど動力として、蒸気機関のボイラーがあったと考えた。これなら、煙突を竪坑からできるだけ離して設置する理由がつく。そして、現地の状況を地図に書いてみる。谷筋や、北西風の流れを考えたら、煙突の煙が竪坑方向に行かないように配慮して建設している事が読みとれた。
以上から煉瓦造りの廃墟は、
3)トンネル工事中に使用していた、機械類を動かすボイラーの煙突跡
だったのではないだろうか。その状況を、想像で書いてみる。
おそらく、私の考えで間違いないと思うのだが、それでも確信を持つことができなかった。それは、ボイラー室と煙突の関係がよくわからなかったからである。
そんな時に、沖縄県の宮古島で煙突ボイラーの遺構が発見されたというニュースを目にした。そこは、さとうきびから砂糖を精製する製糖工場の一部として、ボイラー室の遺構が”ブッシュ”の中から発見された様である。
宮古毎日新聞(2019年7月)に、その発見された様子が載せられていた。
四角に囲われたところにボイラーが据えられていたようだ。もちろん当時は、煉瓦の壁もあったのだろうが、ガジュマルに侵食されてボロボロになっていたようだ。
現地の写真を見返していたら、壁の様な煉瓦構造物が不自然に倒れていた。
まさに、これがボイラー室の壁ではないだろうか!?
あくまでも、これらの意見は個人のブログの妄想であって、根拠のあるものではありません。また、専門家の御意見に楯突くものでもありません。
間違っていましたら、申し訳ありません(笑)






















