岡村勲先生がご逝去された。
印象に残っている先生の言葉がいくつかある。
凶悪犯罪のご遺族は皆、こう思っている。大切な家族の仇討ちをしたいと。しかしそれを認めると国家や社会の秩序が乱れる。だから国がその無念を晴らしてあげることにした。これが近代国家の考え方だ。その究極の選択が死刑制度である。
こうも言った。今(当時)の司法は国家や社会の秩序維持のためにあり、被害者のためにはないと言い切っている(平成2年最高裁判決)。国家に歯向かったから、けしからんと言って刑罰を課するのが今の司法だ。ならば、お礼参りは警察官、裁判官、法務大臣にやって欲しい。
この言葉も印象的だった。裁判官が被告人に反省しているかと聞く。はい、反省してますと答える。そうか、ならば執行猶予付きにしてやろうと判決する。言語道断だ。加害者を許せるのは被害者だけだ。裁判官がやっているのは越権行為だ。私の妻が殺されて、裁判官が法務大臣が夜も眠れなくなるほど苦しんだとでも言うのか❗️
どの言葉も私には、全てよくぞ言ってくださったと思った。勇気を頂いた。全国犯罪被害者の会(あすの会)が設立されたのは2000年1月23日。その年の8月、岡村先生から直接お電話を頂いた。二つ返事で入会した。
あすの会は、今では当然となっている被害者参加制度の創設に向けて国民運動を起こした。47都道府県全てを回り、街頭署名だけで55万7215名を集めた。ネット署名が普及していない時代であった。それを小泉純一郎元・首相に手渡した。直ぐに動いてくださり、当時2年生議員たった上川陽子元・法務大臣が動いてくださって、犯罪被害者等基本法ができた(2004年)。刑事司法で被害者の権利が誕生した瞬間だ。
いよいよ平成18年の法制審議会が始まった。私が、あすの会の副代表幹事をやらせて頂いたのもこの頃だった。
私も全ての会議に同行させて頂いたが、その時の岡村先生の体調が最悪であった。四面楚歌だったからだ。ほとんどの委員が、あすの会の主張する被害者参加制度に消極的だった。なぜなら被害者にも検察官と同等の権限(起訴したり上訴したりする権限)を認めて欲しい、検察官、被告人、被害者を対等に位置づけて欲しいというのがあすの会の要望だったからだ。第4回会議が始まる直前、大会議室の前で、サンドイッチを一つ手にした岡村先生を見た。封をあけていなかった。昨夜から一睡もできなかったようだ。
法務省から妥協案が出された。『被害者は検察官の傘の元で権限を行使する。ただし被害者の要望は検察官において真摯に受け止めて対応するという法律の明文を設ける』というものだ。
私もそれが良いのではないかと岡村先生に強く進言させて頂いた。
こうして被害者が検察官の傘のもとで直接裁判に参加することができる今の被害者参加制度ができた。検察官の隣に座ったり、全ての刑事記錄を閲覧したり、被告人に直接質問したり、意見陳述したり、求刑意見を述べたり、遺影を持ち込んだり、判決文を入手できたり、裁判期日を被害者の要望を聞いて指定してくれたりするようになったのも岡村先生を始めとするあすの会の功績だ。それまで、全て認められていなかったのだから。
過失運転致死罪を危険運転致死傷罪に訴因を変更して欲しいという要望にも、検察官が真摯に耳を傾け、再捜査してくれるようにもなったのもこうした活動の成果だ。
岡村先生こそ、戦後60年間続いた刑事訴訟法を被害者のために大変革させた立役者だ。
(次回は、岡村先生の功績と公訴時効の廃止について述べたい)